テリー 里見さんって東映に入ってすぐ人気者になりましたよね。
里見 早かったですね。ありがたいことに僕は4本目が主役でしたから。
テリー あの頃の銀幕のスターって、今の人気者とは全然違うじゃないですか。ケタ違いですよね。
里見 そうですね。それは違います。ビックリしました。
テリー 何にいちばん驚いたんですか。
里見 いや、でもね、初めて撮影所に入って、自分でメイキャップをして、カツラをかぶった時は「しまった! 俺は京都に来るべきじゃなかった」と思いましたね。「何だ、これ」と。
テリー そんなことないですよ。昔の写真を見ても、とびきり格好いいじゃないですか。
里見 それはプロの方にやっていただいたからですね。そうすると、やっぱりちゃんと時代劇の顔になるんですよ。その「しまった!」と思った1週間後ぐらいですかね。新人の宣伝用のポートレートを撮ることになって、その時はメイキャップの先生がメイクしてくれて、(大川)橋蔵さんの古いカツラをかぶせてもらったんですよ。そうしたら、やっぱり格好いいんですよ。よかったと思いましたね。
テリー 東映は時代劇と現代劇に分かれるじゃないですか。「しまった」って思ったということは、京都へ行くのは里見さんが自分で希望したんですか。
里見 新人はみんな自分で決めるんですよ。9月になると俳優課の課長さんから、「俳優座での勉強は今月で終わります。時代劇をやりたい方は京都、現代劇をやりたい方は東京。これは後から『やっぱり東京にします』とか変更できません。今月中に決めてください」って言われるんですよ。
テリー ああ、そうなんですか。でも、役者になって半年で決めるのは難しいですよね。
里見 悩みましたよ、ほんとに。誰かに「あなたは時代劇の方が合ってますから京都へ行きなさい」って言われた方が、よっぽど楽だった。
テリー 何で京都にしたんですか。
里見 経済的な理由です。当時、僕らの月給が8000円で、源泉徴収を800円引かれると7200円ですよ。それで調べたら、大泉の撮影所の近くにアパートを借りると3200円から3800円ぐらいで、それを払うと残りは4000円もないんです。それで1カ月ご飯も食べてって生活できないと思ったんですね。でも、京都には3000円で朝メシと晩メシがついた独身寮があると。それで「京都に行かせてください」って言ったんです。
テリー そういうことか。じゃあ、もし大泉のアパートがもっと安かったら、今の里見浩太朗は生まれてないかもしれない。
里見 そうでしょうね。
テリー そうすると「水戸黄門」で格さん、助さん、黄門様を全制覇することもなかったですね。あれ、すごいですよね。他にそんな人いないでしょう?
里見 いないでしょうね。以前「週刊文春」で、僕の格さん、助さん、黄門さんだけの「黄門様ご一行」のグラビアを作ってもらったことがあります。
テリー (その時の写真を差し出されて)ほんとだ、おもしろいなぁ。「水戸黄門」はそのぐらい長いシリーズになりましたけど、最初に決まった時はどんな気持ちだったんですか。
里見 その頃、東映は時代劇映画からヤクザ映画路線に移っていて、僕もヤクザ映画には出たんですが、顔が幼くて全然ヤクザに見えなかったから、これはダメだなと思っていたんですね。そんな中、テレビで大川橋蔵さんの「銭形平次」が始まって「いいなぁ」と思っていたんです。でも、そのうちに「水戸黄門」や「大岡越前」が始まりまして。やっとカツラをかぶる仕事ができると、ホッとしましたね。
テリー 里見さんにもそんな時期があったんですね。
里見 ほんとに。ヤクザ映画の時は水のないところで魚が泳いでるぐらい苦しかったですね。
ゲスト:里見浩太朗(さとみ・こうたろう)1936年、静岡県出身。高校を卒業後に上京。1956年、「東映第三期ニューフェイス」として芸能界入り。翌年、映画「天狗街道」で本格デビュー。1958年、映画「金獅子紋ゆくところ」にて初主演。以降、数多くの東映時代劇に出演、その後はテレビ時代劇に進出した。中でも「水戸黄門」(TBS系)や「長七郎江戸日記」(日本テレビ系)は代表作となる。3/14(木)~22(金)まで、名古屋・御園座三月特別公演「水戸黄門」を上演。