「マイアミの奇跡」で知られるアトランタ五輪サッカー代表のエースFWとして活躍し、海外でもプレーした松原良香氏が、五輪代表のチームメイトだった城彰二氏のYouTubeチャンネルで、当時を振り返った。
松原氏の名前は一般的にはそれほど知られていないが、サッカー界においてはビッグネーム。サッカーライターは、松原氏をこう評価する。
「日本サッカーが躍進する90年代前半には、将来のエースとして期待されていました。名門の東海大一高の出身で、ウルグアイのクラブでプロサッカー契約を結ぶと、Jリーグのジュビロ磐田や、クロアチアのリエカでもプレーしました。忘れられないのは、1996年のアトランタ五輪。奇跡を起こしたブラジル戦に出場しています」
Jリーグや海外のチームを渡り歩き、波乱万丈のキャリアを歩んできた。その源流にあるのが「大学進学」だ。松原氏は特待生として阪南大学に入ったが、わずか3日で辞めてしまったのである。なぜそんな暴挙に出たのか、松原氏の言い分はこうだ。
「高校2年の時から(大学の)監督はスカウトに来てくれていた。俺が行ったらもう1人、特待で獲ってくれると。実際に獲ってくれた。(大学に)着きました。(すると先輩が)下手っていう。先輩たちの方がうまくないのに、なぜ俺がトンボをかけないといけないのか。すぐ辞めると決断した」
大学の関係者に何も伝えず、3日後には故郷の静岡に帰ってしまった。今となっては、
「本当に申し訳ない。あの時はね、本当に迷惑をかけた」
しかし、これが松原氏のサッカー人生を大きく動かすことになる。大学を辞めた後、高校の同級生で清水エスパルスに入団していた白井博幸氏の家に居候し、毎日ゲームをしていた。そんな時、
「(山本)昌邦さんから電話があって、『お前、何やってるんだ。いい加減にしろ』と。で、ジュビロ磐田に行った。昌邦さんは『いいのかお前、俺らは世界を目指すんだ』と。それで海外に行かないかと言われた。たまたまウルグアイに行った」
日本に帰国してジュビロ磐田でプレーするが、当時のハンス・オフト監督と衝突し、清水エスパルスにレンタル移籍。翌年はジェフユナイテッド市原へレンタルで出される。以降はクロアチアのリエカ、スイスのクラブ、湘南ベルマーレ、ウルグアイのクラブと毎年のようにチームを移り、流浪のサッカー人生を送った。
スポーツの世界に「もし」は禁物だが、もしあの時、我慢して大学でプレーを続けていたら、中田英寿氏や城彰二氏を超える選手になっていたかもしれない。
(鈴木誠)