1999年は日本プロレス界にとって時代の変わり目となった。
1月4日の東京ドームが大仁田厚の邪道色に染められ、強さの象徴とされていた橋本真也が小川直也の一線を超えるファイトで事実上のKOに追い込まれて、72年3月の旗揚げから〝キング・オブ・スポーツ〟を掲げてきた新日本プロレスの最強神話が崩壊。
1月31日には力道山亡き後の日本プロレス界を牽引してきた、ジャイアント馬場が急逝したのである。
馬場が体調不良を訴えたのは前年98年11月29日のこと。「世界最強タッグ決定リーグ戦」のオフ日で仙台にいた馬場は、仲田龍リングアナウンサーに伴われて現地の診療所へ。風邪だと診断されて、翌日の仙台スポーツセンターの試合に出場したが、試合後に腹痛を訴えて30日の移動日に帰京。12月2日の巡業に合流するために元子夫人の運転で松本市総合体育館へ向かうも「うーん、ダメだなあ。無理なもんは無理なんや!」と、馬場が珍しく声を荒らげたため、元子夫人は東京に引き返して東京医科大学病院に連れて行った。
この松本大会と翌3日の浜松大会の2試合を欠場したが「トップレスラーはどんなことがあっても試合を休んではならない」を信念とする馬場は4日の千葉大会には戦線復帰を果たした。
そして全日本の98年最終戦となった5日の日本武道館におけるラッシャー木村&百田光雄と組んでのVS渕正信&永源遙&菊地毅との6人タッグに出場。渕に河津落とし、腕ひしぎ十字固め、菊地にはパイルドライバーを炸裂させるなど、体調不良を感じさせないファイトを見せたが、この国内通算5758試合目が馬場の生涯最後の試合になってしまった。
試合後に報道陣を「来年の東京ドーム? 予定があったら言いますよ。まあ、そういうことで。来年もよろしく。皆さん、さようなら」と煙に巻いたのが公での最後の言葉になった。
12月13 日にカナダ・バンクーバーで開催されるWWF(現・WWE)の大会に招待されていた馬場は、日本を発つ前の7日に東京・新宿の東京医科大学病院で精密検査を受け、ここでドクターストップがかかって緊急入院したのである。
本人には告知されなかったが、上行結腸がんが見つかり、それがすでに肝臓に転移していた。がんの事実はごく一部の関係者にしか知らされず、1月8日に行われた開腹手術は「癒着性腸閉塞の手術を受けた」と発表された。
そして1月23日に病室で61歳の誕生日を迎えた馬場は、1週間後の1月31日午後4時4分、生涯現役のまま息を引き取った。
その数時間前には後楽園ホールでメキシコから逆輸入の形で従来のプロレスとは価値観を異にする闘龍門(現ドラゴンゲート)が旗揚げ。日本プロレス界は新時代に突入したのである。
2月1日午後7時、ジャンボ鶴田、百田、三沢光晴が記者会見を行って馬場の死を公表。翌2日に荼毘に付され、同夜の新日本の弘前市民体育館大会では追悼の10カウントゴングが鳴らされた。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。
写真提供・:平工幸雄