1989年7月、アントニオ猪木が参議院議員になったことで、日本プロレス界は転換期を迎えた。
72年3月に猪木が新日本プロレス、同年10月にジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げしてからの日本プロレス界は、馬場と猪木のBI2大巨頭の対立によって動かされてきた。
仁義なき選手引き抜き合戦の末に引き抜き防止協定が何度か結ばれたが、新日本が協定違反をして再び戦争状態に突入するというのがお決まりのパターンであり、休戦状態の時でも馬場の心の奥底には「猪木は信用できない」という感情が常にあった。
しかし、猪木が参院選出馬に際して新日本の代表取締役社長の座を坂口征二に譲ったことで、新日本と全日本に雪解けムードが生まれた。馬場が坂口のことは信用していたからだ。
馬場と坂口は日本プロレス時代に東京タワーズとしてインターナショナル・タッグ王者にもなったし、礼儀正しい温厚な坂口を馬場はかわいがった。
「日本プロレスはお前に任せたから」と、全日本を旗揚げした馬場は、いずれ日プロは崩壊すると見越していて、その時には坂口を迎え入れるつもりでいた。
坂口が猪木と握手して新日本に合流したのは想定外だったものの、その後、全日本と新日本に揉め事が起こった時に、馬場との窓口になったのは坂口だった。
89年末にプロレス専門誌の週刊ゴングの全日本担当記者だった筆者は、馬場に坂口体制になった新日本との関係を聞いてみた。
「企業の裏の話まではできないなあ。まあ‥‥坂口もわりかし人を騙さん男だということは言えるよ」
口の重い馬場だけに、この言葉だけで十分だった。
そして年明け90年1月4日午後6時、坂口がキャピトル東急ホテル(現在のザ・キャピトルホテル東急)に馬場を表敬訪問して首脳会談が実現。この坂口の表敬訪問はプロレス・マスコミ間では〝公然の秘密〟になっていて、各社が待機していた。
普段はガードが堅い馬場が「みんな集まってきちゃったのか。仕方ないなあ」と、記者たちを招き入れて両団体の協調路線を発表。
この馬場と坂口の握手によるBI戦争終結&協調時代への突入は、前年89年11月に東西ドイツを分断していたベルリンの壁が崩壊したことが契機となって、アメリカとソ連が冷戦終結を宣言したことに重ね合わせて「プロレス界のベルリンの壁が崩壊した」と、センセーショナルに報じられた。
長きにわたって続いたBI対立時代が終焉を迎え、日本プロレス界は新時代に突入したのである。
新日本&全日本協調路線は馬場と坂口の信頼関係がベースになったが、手を組まざるを得ない事情もあった。WWF(現WWE)が84年から各テリトリーのトップ選手を引き抜いての全米侵攻を開始したことでアメリカの勢力図が変わり、両団体ともに呼べる選手が限られてきた。
それまでレギュラーだったトップ選手がWWFに移籍したことで来日中止になるケースも少なくなかったため、新日本と全日本の団体間での交流が不可欠になったのである。
また第3勢力とも言うべきUWFの台頭に対する危機感も、新日本と全日本を結びつける大きな要因だったに違いない。
当時の両団体の状況は、全日本では外国人の新たなスター候補として新日本の常連だったスティーブ・ウイリアムスを欲していた。
一方、新日本は2月10日の東京ドームで当時のWCWの黄金カードのリック・フレアーVSグレート・ムタを直輸入したかった。
新日本はWCWと業務提携していたものの、引き抜き防止協定ではNWA世界ヘビー級王者フレアーは全日本のリストに入っているために、ルールを重んじる坂口は馬場の承諾なしでは呼べなかったのだ。
この日、新日本の2月10日の東京ドームでフレアーにムタが挑戦するNWA世界戦が行われること、2月21日に後楽園ホールで開幕する「エキサイト・シリーズ」からウイリアムスが全日本に移籍することが発表された。
その後、ドーム大会まで1カ月を切った1月11日、WCWが新日本に「フレアーとムタを派遣できなくなった」と通告してくる事件が起こった。
ドタキャンによる目玉カードの消滅に慌てた坂口は馬場に「スタン・ハンセンとかの外国人選手を貸し出してもらえませんか?」と要請。馬場は「社長就任のお祝いだ」とハンセンだけでなくジャンボ鶴田、天龍源一郎、谷津嘉章、タイガーマスク(三沢光晴)の派遣を決定した。
「あの大会でドーム興行をやっていけるっていう自信が付いて、翌年から正月の1月4日にやろうっていうことになって、それが恒例化したんだよ」
と坂口は振り返る。
馬場と坂口の協調路線が今や日本プロレス界の正月行事としてすっかり定着している「イッテンヨン」を生んだのである。
小佐野景浩(おさの・かげひろ)元「週刊ゴング編集長」として数多くの団体・選手を取材・執筆。テレビなどコメンテーターとしても活躍。著書に「プロレス秘史」(徳間書店)がある。