寡兵で大軍を破ることは戦国合戦の醍醐味だが、この義弘、海外でもそれをやってのけた。朝鮮の役で義弘の守泗川城に20万の明軍が押し寄せた際、その雲霞のごとく大軍を蹴散らし、3万8771もの敵の首を討ち取って明軍から「鬼の石曼子(=島津)」と恐れられたのだ。
跡部氏が大関として推挙する、もう1人が毛利勝永だ。中国地方の覇者となった毛利家とは無関係だが、その武勇にあやかって、その父の代で「森」から「毛利」へ姓を改めたという。その勝永も寡兵で大軍に挑み、戦果を挙げている。それは慶長20(1615)年の大坂夏の陣。
大坂方として天王寺口の守りを託された勝永は、本隊を右備え・左備えの二手に分け、敵を近づけるだけ近づけて銃隊に一斉射撃を命じた。徳川方の第一陣がその銃撃に混乱して大将の本多忠朝が落馬して討ち死にした。勢いをかって毛利勢は第二陣の大将、小笠原秀政らを負傷させ、第三陣までかき回し始めた。
「こうして敵陣をことごとく打ち破る毛利勢に乗じ、真田信繁(幸村)が家康の本陣に迫ることができました。『日本一の兵』との称号を得た幸村の陰に隠れていますが、勝永のこの活躍は戦国合戦史においても特筆すべきものだと考えています」(跡部氏)
横綱と大関が出そろったところで、気になるのは幕内にも入れない戦下手ではないか。史上最弱と呼ばれる武将がいた。小田城(つくば市)の城主、小田氏治だ。生涯20回以上の敗戦を味わい、居城を落とされること、数えられるだけで9回にも及んだ。
「ところが、落城後に毎回のように城を奪回するのです。上杉方から寝返った時には、怒った謙信に城を落とされましたが、氏治を懲らしめただけで謙信は満足したのか、城は氏治のもとへ返ってきました。幸運の持ち主だったとも言えます」(跡部氏)
ところが、氏治の運も尽きる。天正18(1590)年正月、最後の居城奪回戦に失敗。だが、氏治は関東の諸将の多くが秀吉にひれ伏す中、降伏を拒む気概を見せた。その後、結城秀康(家康の次男)の客分として静かな余生を送ったという。
生き残るのが勝ちならば、腕っぷしの強さだけが武将を量る尺度ではない。