敵を討ち取ったあとは、配下とともに勝利の美酒に酔いしれる─。戦国武将は酒にも強くあってほしいものだが、こればかりは体質もあるようで‥‥。
戦国大名から江戸時代では初代仙台藩主となった伊達政宗は、酒をこよなく愛していたのだろう。それは城内に造酒屋敷(酒蔵)まで設けたことからもわかる。ただ、酒が強かったかというと‥‥。上永氏が言う。
「政宗は筆まめで、300通ぐらいの手紙が残っています。その中には酒に酔って書いたものや、松本藩主宛てに『二日酔いで今日は会えない』と詫びたユニークな内容のものが複数見つかっています」
決して酒豪というわけではなさそうだ。宣教師ルイス・フロイスは織田信長のことを〈酒を飲まず〉と書き残しており、あの信長も酒には強くなかったようだ。秀吉や家康も大酒飲みだったと記す史料は残されていないという。三英傑に酒豪は見当たらない。跡部氏によると、
「天下取りに絡んだ武将だけに酒の害を気に留め、嗜む程度にとどめていたのではないでしょうか。とはいえ、掛け値なしに『酒豪』と呼べる武将もいます、その1人は福島正則でしょう。戦国時代の名医として知られる曲直瀬玄朔(前述の道三の養子)は、正則は酒の飲みすぎのせいか、食事の代わりに水ばかり飲んでいたと記しており、アルコール依存症と言ってもいいぐらいです。毛利家の家記にも正則は〈大酒にて(中略)酔いたるばかり〉とあり、他の大名にまで酒豪ぶりを知られていたようです」
しかも、すこぶる酒癖が悪かったようで、酒に酔って勘違いし、家臣に切腹を命じたまま正則は高いびき。酔いから醒めて、その家臣の名を呼んでも一向にやって来ないので不思議に思って他の者に質したところ、切腹の事実を知らされる。そうして正則は声を上げて泣いたという逸話まで残っている。
そんな正則に飲み競べで勝った者もいる。黒田長政の家臣である母里太兵衛だ。黒田家の家臣伝にある記載によれば、正則は大酒飲みだという評判を聞き、伏見城下の邸に太兵衛を招いて酒宴を開き、余興として、鉢のような大きさの大盃を差し出した。さすがの太兵衛も「これはもってのほか」と固辞するが、酒癖の悪い正則は「これで酒を飲み干したら、望みの物を何でも差し上げる」と言い出した。そこで、太兵衛は座敷の上座に懸けてある槍を所望し、見事、一気に飲み干した。それは、正則が秀吉から賜った秘蔵の槍だった。一方の黒田家では、秘蔵の槍を飲み取った太兵衛を称え、「♪酒はのめのめ飲むならば、日の本一のこの槍」と囃した。これが有名な「黒田節」の歌詞の由来となったのだ。
もう1人、酒豪武将として忘れてならないのは上杉謙信だろう。梅干しをつまみに毎晩のように酒を飲んでいたと伝わる。また、出陣の際、馬にまたがり戦勝を祈願して盃に満たした酒を飲んだとも言われている。いわゆる「馬上盃」だが、山形県米沢市の上杉神社には、謙信愛用とされる盃が所蔵されている。
謙信の遺偈(辞世の句)は〈四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒〉。49年の我が人生は一睡の夢のよう、また一期の栄華は一杯の酒のようなものという意味だという。戦巧者で酒豪でもあった謙信が49歳以上に長生きしていれば天下の行方は変わったかもしれない。酒の飲みすぎに注意しなければならないのは、戦国時代も現代も大きく変わるものではないのだ。