有名スポーツ選手や会社経営者らの妻は、しばしばマスコミに「美人妻」と紹介される。いわゆる〝トロフィーワイフ〟なのだが、戦国の世にも存在したのだろうか。女性は「政略結婚の道具」と見られていた時代ではあるが、なかなかどうして‥‥。
クラッセというイエズス会宣教師の手による「日本西教史」で〈容貌の美麗比倫なし〉と書かれたのは、細川忠興の正室であるお玉だ。明智光秀の娘でキリスト教を信仰し、その洗礼名から細川ガラシャと呼ばれることが多い。布教のために数少ないクリスチャンを必要以上に誉めたたえた可能性もある。また、その後にたどった悲劇的なガラシャの最期が加味され、美化されたことを考慮する必要もあるだろう。だが、ガラシャにはこんな逸話が残る。
天正15(1587)年、忠興が豊臣秀吉の九州遠征に従軍するにあたって、大坂を留守にする際、忠興は〈帰るまでは決して外出せざるやう〉(「イエズス会日本年報」)と彼女に命じ、〈その家臣で大いに信頼せる老貴族二人に夫人を守ることを命じた〉(前掲書)という。
今風に言えば、忠興は束縛するタイプで、そんな嫉妬深い性格を象徴する話として伝わっている。だが、他人に寝取られないために老臣に監視を命じなければならないほど、ガラシャは魅力的な女性だった証拠とも言えよう。
こうして戦国の世を見渡すと他にも美人妻はいる。
例えば、前田利家の妻であるまつ。夫婦そろって大河ドラマの主役になったことで有名だ。
「まつは満11歳で利家(当時19歳)に嫁ぎました。利家との間に11人も子をもうけたのは愛の証かもしれません。当時は珍しくないことですが、幼い時から目を引く美貌があったとも言えるのでは」(上永氏)
さらに、宇喜多直家の正室、おふくも妖艶な雰囲気を感じさせる美形だったという。
「冷血漢とされる直家がベタ惚れになったことが、おふくを際立たせていると思います。直家の没後、おふくは秀吉の側室となるのですが、そこでも寵愛されたとか。未亡人でも人妻でもイッちゃう秀吉とはいえ、美女たちを抱えていたのですから、おふくに魅力がなければ、側室にはなれなかったはず」(渡部氏)
荒れ果てた戦国の世に咲いた華麗な花は武将たちを魅了し続けていたのだ。
そんな中、今回の取材に答えてくれたお三方ともに「美人妻といえば」と問うと、最初に名前が出たのは、お市の方だった。信長の妹で、「無雙の美女」などと史書で称えられることが多く、浅井長政の正室となり、その後に柴田勝家と再婚した美人妻でもある。
高野山持明院蔵のお市の方の肖像画は、娘である淀殿(秀吉の第二夫人)が母の七回忌法要を行った際に奉納したものだとされている。娘が製作にもかかわっているはずで、生前の母をありのまま描写した肖像画に違いない。だが、現代の感覚からすると、果たして美人のカテゴリーに入れていいものか。ここは意見の分かれるところだろう。美女の基準は時代とともに様変わりしていくのだ。
「淀殿も美女だったとされますが、お市の方のように史書に記されておらず、美人の誉れ高かった母の血筋だから、もしくは天下人の秀吉が見初めたのだから‥‥と後世に解釈され、そういう評価が定まったのでしょう。そして、この美女親子を巡っては、婚姻に関するミステリーがあるのです」(跡部氏)
江戸時代の随筆「翁草」に淀殿の没年が49歳だと記され、そこから逆算すると、永禄10(1567)年の生まれとなるのだが、
「お市の方の長政への輿入れが、その年から翌年にかけて。つまり、2人が床を共にして、妊娠期間を加味すると、どうにも淀殿誕生までの計算が合わない。淀殿は長政の子供でなかったのでは‥‥」(跡部氏)
お市の方は性に奔放な女性だったのか‥‥。いやいや、評判どおりの美女だったんです!