シアトルを出港したアメリカ船籍の貨物船「マーガレット・ダラー」号が、ファン・デ・フカ海峡の入り口にある通称「墓場岬」と呼ばれるフラッタリー岬沖で、波間に漂う不審な小型漁船を発見した。
船に近づいてみると、そこにはカラカラに干からびてミイラ化したものや、すでに白骨化した遺体が横たわり、傍らには腕や足のない遺体もあったというのである。
このおぞましい光景が展開されたのは1927年10月31日のことだが、当然ながら翌日の米新聞各紙には「幽霊船現る!」「貨物船が発見したのは死の船だった」等々、センセーショナルな見出しが並ぶことになる。
石油缶の中に人の腕が残されていたとして、船乗りたちが、亡くなった仲間の体を切り刻んで食べたのでは、といった憶測を交えた報道も。このニュースは全米を駆け巡り、大変な騒ぎに発展したのである。アメリカ事件史に詳しい専門家が解説する。
「当時の報道によれば、甲板で見つかったミイラは2体で、他の遺体はいずれも腕や足などが欠損したバラバラの状態でした。船内には海鳥の羽や、干からびたサメなどの残骸が残されていたそうです。漂流船はシアトル港まで曳航され、当局による詳しい調査が行われることになりました」
調査により、この船は日本の「良栄丸」であることが判明。和歌山県串本町を本拠地とするマグロ漁船で、毎年10月から翌年7月までの間は、神奈川県三崎付近で漁を行っていた。この時は1926年12月5日に三崎港を出港。天候不良で千葉県銚子港に寄港したのち、房総半島沖でマグロ漁を行い、小笠原付近まで漁の範囲を広げて、12月には和歌山に戻る予定だった。ところが房総半島での目撃を最後に、行方がわからなくなっていたという。前出の専門家が語る。
「良栄丸の乗員は船長を含め、12名。ところが発見された遺体が9名分しかなかったことで、様々な憶測が流れました。それにしても、1年の漂流を経てシアトルまで流されていたとは…。その後、船内から『良栄丸日誌』が見つかり、全文が公開されました。食糧の備蓄が底をついた後は、魚や水鳥などを捕まえていたものの、最後には皆、力尽きて亡くなっていく様が、この日誌によって明らかになりました」
ただ、そこには「食人行為が行われた」といった記述はいっさいなく、乗組員の多くが栄養失調からくる病で亡くなっていったことが記されていた。
この事故は「海の怪奇」(庄司浅水・著)に「良栄丸遭難事件」として描かれている。現在もなお、和歌山県串本町の共同墓地入り口にある「良栄丸遭難之碑」に手を合わせる人は絶えないという。
(ジョン・ドゥ)