幸せな新婚生活を送るはずの5日前に、見ず知らずの男に斬殺された花魁がいる。しかも完全なトバッチリで、だ。
明治時代に「若紫」という遊女がいた。「源氏物語」に登場する女性にちなんだ源氏名で、本名を勝田信子という。
10歳になる前に大阪で買い取られ、当時は日本一の遊郭と呼ばれた新吉原の三大老舗のひとつ「角海老」に預けられた。遊女デビューは明治31年、17歳の時だった。
彼女は知性と教養にあふれ、その姿には気品すらあった。多くの男性を虜にし、人気は吉原随一だったといわれている。
だが、その最期は悲惨だった。彼女の年季、店との契約期間は5年。遊女の豪華絢爛な衣装は有名だが、全て自腹である。その上、布団代なども請求されるため、通常は年季が延びる。遊女の年季が明けるのは27~28歳頃であり、10年以上は客を取る生活を余儀なくされるのが普通だった。
ところが「角海老」随一の人気で稼ぎもいいため、5年で年季が終わることになっていた。その前にも数多くの金持ちから身請け話はあったが、全て断った。真剣に交際していた恋人がいたからだ。借金を返し終え、晴れて恋人との新婚生活が待っていた。ところが彼女は事件に巻き込まれ、幸福の絶頂から奈落の底へと叩き落とされる。
詳細はこうだ。明治36年8月24日。他の店の遊女と無理心中をしようと、匕首(あいくち)を隠し持った男がいた。その男は、無理心中の相手が別の客を取っていることに逆上。そのまま店を飛び出したという。そこで目に入ったのが「角海老」だった。
ふらりと店に入ると、若紫がいた。我を忘れた男は引き寄せられるように近づき、振り返った彼女の首に匕首を突き立てた。男はそのまま刄を抜き、自分のノドにも突き立てたという。
店の男衆は若紫の首を押さえて血止めをしたが、彼女はすでにコト切れていた。血の海に溺れ、わずか22歳でこの世を去ったのは、年季が明けるわずか5日前のことだった。
若紫の墓は東京都荒川区南千住の「浄閑寺」にある。この寺は年季明け前に死亡した数多くの遊女が投げ込まれるように埋葬されたことから「投込寺」と呼ばれており、彼女のようにきちんと埋葬された例は少ない。
(道嶋慶)