「新幹線大爆破? そんな映画には協力できない」
それが国鉄(現JR)の回答だった。日本の先進技術の結晶である新幹線が、そんなタイトルの映画のためにイメージダウンさせられてはかなわない。まして、模倣犯が出現しようものなら──というのが国鉄側の見解である。
関根は、過去の映画の撮影時を思い起こしながら、途方に暮れた。
「三國連太郎さんが主演で、健さんも出た『大いなる旅路』(60年、東映)の頃は、国鉄とは蜜月だったんですよ。冒頭で貨物列車が転覆するという重要なシーンに、本物の車両を出してくれましたから」
東映サイドも妥協案を出した。タイトルから新幹線を外して「爆破魔を追え!」に変えてはどうかというもの。ただし、これには岡田社長のほうがOKを出さず、何としても「新幹線大爆破」でいけと号令。交渉は決裂し、条件つきの撮影を強いられることになる。
本作に助監督で参加した岡本明久が振り返る。
「新幹線の車内も、駅のホームもすべてセットで作らざるを得なかった。中でも困ったのは新幹線の指令室で、どういう構造なのか、情報を集めるのが大変でした」
岡本は「網走番外地」(65年、東映)や「昭和残侠伝」(65年、東映)など、多くの高倉主演作に参加している。高倉を中心に和気あいあいとした空気は、本作においても変わらなかった。
「スタッフでも装飾とか特殊機械とか、そうした縁の下の人たちにもプレゼントをされるような気配りの人」
高倉が演じたのは、経営難で倒産する町工場の社長の役。背中に唐獅子牡丹がうなることもなく、池部良と“道行き”で敵陣に乗り込むこともない。当時の世相を反映した、悲哀がにじむ役だったと岡本は言う。
「同じ犯人グループには(山本圭扮する)元過激派もいたし、健さんの中小企業の社長というのも時代感覚に合っていた」
一方で脚本の小野は、高倉を迎えたことによって大幅な軌道修正をする。当初、犯人役に大物スターの予定はなく、宇津井健ら国鉄側や、警察の捜査の面から描くはずだった。
「健さんを使うわけだから、シナリオにも“複眼”が必要になってきた。なぜ、犯行に至ったのかという犯人側のそれぞれの背景を書き足して、そのぶん、映画の流れを寸断しないだろうかと思ったよ」
当時の日本映画としては異例の2時間30分という長尺になった。ただし、犯人側の心理と、次々と起こるトラブルで乗客がパニックに陥るさまがテンポよく描かれ、小野の心配は杞憂に終わった。
前述のように国鉄の協力がなかったことで、俳優までもがスタッフの準備に加勢する現場だったと岡本は言う。
「それこそ健さんを筆頭に一丸となって作った映画。今までの東映にない、新たな流れの映画を作ったという自負がありましたよ」
大ヒットは確実‥‥と誰もが思った。