「清水商業にバケモノがいる」
「これまで見たことがない天才選手だ」
そんな噂を耳にしたのは1995年だった。過去にも「天才」「怪物」と呼ばれた高校生のサッカー選手は何人もいる。しかし多くは大成せずに、平凡な選手で終わっている。ゆえにこの手の噂は、かなり割り引いて聞いていたものだ。
初めて小野伸二のプレーを目にしたのは1995年、東京・西が丘サッカー場で行われたU-17代表の親善試合だった。当時の彼はチリチリの天然パーマの、まだあどけない少年だった。しかしプレーを見て、度肝を抜かれた。
トラップ、パスのセンス、そしてドリブル。全ての技術が高校生のレベルをはるかに超えていたのだ。隣に座っていたJリーグのチーム関係者は、初めて見る小野のプレーに「なんだ、これは。気持ち悪い…」と驚きの声を上げた。「気持ち悪い」というホメ言葉は初めて聞いたが、小野のプレーにはそれほどのインパクトがあったのだ。
1998年、小野は大争奪戦の末に、浦和レッズに入団。デビュー年から鮮烈なプレーを見せ続け、日本代表入りが確実視された。印象に残っているのが、ある日の練習後の取材で聞いた言葉だ。
当時は日本代表の中心選手といえば中田英寿。中田が相手DFの裏に出す高速のスルーパスは「キラーパス」と呼ばれ、中田の代名詞となった。その一方で、パスを受ける選手は猛ダッシュを強いられ「中田のパスは厳しすぎる」という声も出ていた。
この話題を当時18歳の小野に振ると「自分なら、しっかり合わせることができると思いますね」と、淡々とした口調で語ったのだ。自信満々にではなく淡々と…というところに、小野のすごみを感じたものだ。
のちに小野の「選手思いの優しいパス」は「エンジェルパス」と呼ばれるようになり、早々に中田と並ぶパサーとなった。1998年のフランスW杯日本代表に選出され、誰もが小野の輝かしい未来を確信していた。
予想外の悲劇が起きたのは1999年7月4日、シドニー五輪予選のフィリピン戦(東京・国立競技場)だった。後方からの悪質なファウルを受け、左ヒザ十字靭帯断裂の重傷を負ったのだ。このケガの後遺症は引退するまで小野を悩ませ、選手生命を狂わせた。
小野は試合の「先が見える」稀有な選手だった。プレー中、数手先がどうなるか、展開が読めていたのだ。しかしこのケガの後、小野は「見えなくなった」と明かしている。ケガの影響で、研ぎ澄まされた感覚のようなものを失ったのだろう。
2001年、小野はオランダの名門フェイエノールトに移籍し、中心選手として活躍したが、残念ながらイングランド、スペイン、イタリア、ドイツの欧州4大リーグのビッグクラブでプレーするチャンスはなかった。もし、ケガで「神通力」を失わなかったら…と思うと、残念でならない。
(升田幸一)