他球団の選手同士が〝呉越同舟自主トレ〟で仲よしこよし。危険な投球にも、せいぜい打者が投手をにらむ程度で手は出さない。そんな「優等生」ばかりがあふれかえる令和のプロ野球とは対照的に、かつてはコンプラ度外視で首脳陣から選手までが大炎上! 放送禁止さながらの乱闘シーンをプレイバックしよう。
球史に残る大乱闘が繰り広げられたのは、87年6月11日の巨人対中日戦でのことだった。中日・宮下昌己の投じた快速球が右肩付近に当たったことに、巨人・クロマティが大激怒。マウンドまで走り、宮下の顔面に強烈な右ストレートをブチかましたのだ。熱狂的巨人ファンの芸人・ユンボ安藤氏が振り返る。
「まさしく熊本の藤崎台球場で起きた〝熊本事変〟でした。まず特筆すべきは、クロマティがパンチを入れる前に一瞬だけ間を置いた点。相手が息を吐いて筋肉が緩んだタイミングを狙ったのでしょう。そのリズム感のよさは、翌年結成した『Climb』というバンドのドラムでも生かされています。それでも、とっさに利き手でない右手が出たあたりは温厚な性格がにじみ出ていました」
両軍入り乱れる中、助っ人を羽交い絞めにして止めたのが、この日の先発で2年目の桑田真澄だった。
「後に外国人モデルのアニータとのスキャンダルが発覚したことからもわかるように、外国人へのあしらいがお上手です。暴露本『愛のローテーション』ならぬ〝愛のフルネルソン〟で仲間を守っているようにも見えた。当時の王貞治監督と星野仙一監督がヒートアップしている場面も中継で抜かれましたが、プロレスで『現場監督』の長州力が現れたかのようなエンタメ性を2人で演出していましたね」(ユンボ氏)
球界のレジェンドにバイオレンスなエピソードは付きもの。91年5月19日に秋田の八橋球場で行われたロッテ対近鉄戦では、〝かねやんキック〟が炸裂した。
「金田正一監督がトレーバーに2度もスパイクで蹴りを入れました。みずから開発した『金田式健康棒』で鍛えられた体幹から繰り出す破壊力はバツグン! なのに、退場処分と制裁金10万円を科せられたのはトレーバーだけでした。もしかしたら、『5秒以内であれば反則OK』というプロレスのルールが適用されていたのかも。勝手ながら、通算401勝目に認定したい」(ユンボ氏)
93年6月8日の巨人対ヤクルト戦は「目には目を」の報復合戦となった。ベテランスポーツライターが振り返る。
「中畑清コーチがハウエルにかけたヘッドロックや、川相昌弘が石井一久にジャンピング・ニーパットを決めた場面は有名です。この日の伏線は、5月27日に大久保博元が高津臣吾に死球を当てられて左手を骨折したところにある。野村克也監督の『大久保ごときでガタガタ言うんじゃないよ』というボヤキが、巨人側の逆鱗に触れてしまった。この日も1回表に宮本和知が司令塔の古田敦也に執拗な内角攻めの果てにブツけた。その時点ですでに一触即発のムードでした」
翌年の5月11日に同カードでリターンマッチが勃発。こちらも死球の応酬で球場が騒然となった。
「2回表に村田真一が西村龍次からの頭部死球で病院送りにされたことで、戦いの火蓋が切られた。長嶋茂雄監督に『わかっているな』と報復を示唆された木田優夫が、3回裏に西村の尻にぶつけ返す。すると7回表に西村がグラッデンにブラッシュボールでやり返すなりドンパチが開始されました」(スポーツライター)
この件をきっかけに、セ・リーグでは「危険球は即退場」になった(02年から両リーグ)。ノムさんとミスターの遺恨試合が球界のルールを変えてしまったのだ。