「弱い方のオダ」と揶揄された「戦国最弱大名」常陸の武将といえば、誰だろうか。天文3年(1534年)、鎌倉時代から続く関東八名家の長男として誕生した小田氏治である。室町幕府の第12代将軍・足利義晴のいとこにあたる人物だ。
「強い方のオダ」はもちろん織田信長だが、もう一方のオダは弱かった。居城の小田城を何度も陥落させており、生涯戦績は49戦して21敗6引き分けだったという。
天文17年(1548年)に14歳で家督相続したが、周囲を有力大名に囲まれていたのが身の不運。下総の結城政勝・晴朝父子、越後の上杉謙信らとの戦いで健闘するも、初戦から散々だった。
弘治元年(1555年)、北条氏康の後押しで、結城政勝が小田家の支城である海老ヶ島城に侵攻。氏治は自ら援軍に出向いたが、逆に包囲されて敗北し、海老ヶ島城は落城してしまう。さらに小田城への撤退を急いだが、結城政勝の攻撃で、こちらも城を落とされてしまっていた。
ところが常陸進出を目指す北条氏康は、常陸北部の佐竹義昭に対抗するため、氏治と和解。氏治は北条氏の助力を得られなくなった結城勢を追い払い、小田城を取り戻している。
また、永禄7年(1564年)の山王堂の戦いでは、越後の虎・上杉謙信に大敗して小田城を失った上、将兵が討ち死に。氏治は藤沢城へ逃れ、1年ほどで城の奪回に成功したが、永禄9年(1566年)には上杉謙信の再度の出兵に遭い、再び小田城から敗走している。
その後も何度も落城の憂き目に遭い、生涯の落城経験は9回にも及んだという。ただ、領内での人望があり、菅谷一族や家臣団に支えられながら、その後、奪還に成功している。何度も蘇るため「不死鳥大名」と呼ぶ人もいる。
永禄12年(1569年)に勃発した豊臣秀吉の小田原征伐に際しては「小田原攻めの秀吉軍に参陣せず、豊臣方の佐竹氏に反旗を翻し、小田城奪還の兵を起こした」ことを理由に所領を全て没収され、大名としての小田氏は滅亡。それでも徳川家康の次男である結城秀康の客分として300石を与えられ、小田家は存続している。
(道嶋慶)