「主文、被告人は無罪」
10月31日、神戸地裁101号法廷に、丸田顕裁判長の声が響いた。その瞬間、傍聴席からはどよめきが起こる。新聞記者たちは一報を伝えようと、法廷から出ていった。騒々しい中、被告人席に座る五代目山健組・中田浩司組長(写真)は微動だにせず、正面を見据えていた。
この裁判で争われたのは、2019年に起きた「弘道会系組員銃撃事件」の犯人が中田組長であるかどうか。事件は六代目山口組と神戸山口組の分裂抗争の最中に起きた。
2019年8月21日の午後6時15分頃、神戸市中央区にある六代目山口組系弘道会の拠点付近に、黒い原付バイクに乗った男が現れ、拠点前に停車した軽自動車に向けて、6発の銃弾を発射。車中の弘道会系組員に5発命中させ、右腕切断を伴う全治半年の重傷を負わせたというものだ。
事件当時、山健組は神戸山口組の主力組織(2021年9月に六代目山口組側に移籍)で、抗争の矢面に立っていた。しかもこの4カ月前には山健組若頭(当時)が弘道会系組員によって刺される事件が発生するなど、抗争が激化する中で事件は起きた。2019年12月に中田組長が実行犯として逮捕され、「山健組トップがヒットマンだったのか…」と暴力団社会に衝撃が走った。
裁判が始まったのは10月8日、逮捕からおよそ5年が経過していた。実行犯として殺人未遂と銃刀法違反に問われた中田組長は公判でも完全黙秘を貫き、被告人質問にもまともに答えることはなかった。それに呼応して、弁護側も無罪につながる新証拠を提示するのではなく、検察側が出してきた証拠の欠点を突くという反論を展開した。司法担当記者が言う。
「事件に使用された拳銃は未発見。使用されたバイクこそ押収しているものの、事件と中田組長を結びつける指紋やDNA鑑定など、直接証拠が全くない状態でした。検察は多数の防犯カメラ映像から実行犯の足取りを明らかにして、犯行前の実行犯とみられる男の映像も含め、服装や身体的特徴から中田組長以外には考えられない、と主張していました」
今回は裁判員裁判であるが、検察が頼りにしたのは、裁判員たちの推認だった。暴力団事情に詳しいジャーナリストが言う。
「昨今、この推認での有罪判決が、ヤクザたちを苦しめています。五代目工藤會・野村悟総裁の死刑判決(二審で無期懲役)でも推認に推認が重ねられ、野村総裁以外に組員に命令できた者はいない、と結論づけられた。山口組にも推認で無期懲役判決を受けて服役している元直系組長がいるほど。なかなかシッポを出さない暴力団犯罪に検察側が対抗する手段となり、裁判所がそれを認める傾向が強まっているのです」
だが今回の判決で、丸田裁判長は「いずれの証拠も被告を犯人であると決定づけるものではなく、別人の可能性を否定できない」として、裁判員との議論の結果、「犯罪の証明がない」と無罪を言い渡した。いわば、推認はできないとしたのだ。
振り返れば、公判中も無罪の予兆はあった。裁判長が検察の主張に釘を刺す場面が、何度もみられたのだ。例えば「被告人が映った午前中の防犯カメラ映像を入手した」と検察官が言えば、「実行犯が本当に被告人かどうかを証明するための証拠調べだから、最初から犯人と決めつけた発言は慎むように」とたしなめた。
また、中田組長は30年前に抗争事件で殺人罪に問われ、服役しているが、その懲役13年の刑を言い渡した判決文を、検察側が朗読。裁判員たちに中田組長が「こんなに悪い男だ」と言わんばかりの印象付けを行った際にも、「これを証拠として採用したことを反省している」と話し、裁判員に「同じような前科があることは、罪の理由にはならない。皆さんは慎重に考慮してほしい」と諭したほどだ。法規にのっとった判断をしようという、裁判長の姿勢は明らかだったのだ。
「日本の刑事裁判の有罪率は99.9%などとよく言われますが、この裁判長は『疑わしきは罰せず』を貫く人物として有名でした。あまりに無罪判決を出すものだから、傍聴マニアからは『ミスター無罪』と呼ばれるほど。2012年にも裁判員裁判で、組織犯罪処罰法違反(組織的殺人)に問われた山健組幹部を無罪にしています。とはいえ、この幹部は二審で逆転有罪に…。今回、中田組長を長期間、勾留した検察に、控訴しないという選択肢はないはずです」(前出・ジャーナリスト)
中田組長は同日中に神戸拘置所を出て、5年ぶりにシャバの空気を吸った。判決後には弁護士と話し込んでいたが、笑みを浮かべることさえなかった。はたして法廷闘争は第二幕を迎えるのだろうか――。