初詣の参拝客で賑わう場所のひとつに、愛知県名古屋市の熱田神宮がある。古くから「熱田さん」と親しまれ、天皇家を象徴する三種の神器・草薙の剣を祀る神社としても知られている。
この熱田神宮は草薙の剣だけでなく、有名な妖刀も所蔵している。あざ丸、痣丸とも称される脇差だ。謎に包まれた刀で、平安時代から鎌倉時代にかけて製作されたと伝えられるが、製作者は古備前派の名工・助平、平安時代の刀工・包平と同時代に活躍した正恒など諸説あり、現在も特定されていない。刀長は54.7センチで、愛知県指定文化財として登録されている。
あざ丸は平安時代から鎌倉時代初期の武士だった藤原景清、俗に平景清として後世に名を残す武士の佩刀(はいとう)だったと伝わっている。景清は源平合戦で活躍した武士で、匿ってくれた叔父の大日房能忍を疑心暗鬼から殺害したことで「悪七兵衛」と呼ばれた。また、源氏の武士・美尾屋十郎の兜の左右や首を守るために垂れている錣を手で引きちぎったことでも有名だ。
あざ丸とは鍔(つば)の根元にあざのような黒色の地金があることから、そう呼ばれるようになったという説、景清が刀に映った自分の顔を見た際、顔のあざが映ったことが由来という説があるが、こちらも定かではない。
景清は壇ノ浦の合戦で平氏が敗れた際に捕らえられ、預けられた八田知家の屋敷で食を断ち、絶命したらしい。だが歌舞伎や謡曲では、生き延びて源頼朝に復讐するため、37回も襲った姿が描かれる。最後はその復讐の念を断つため、さらには源氏の繁栄を見たくないとの理由で、自らの両眼をくり抜いたという。
そんな景清の思いが、あざ丸に乗り移ったのかもしれない。熱田神宮に奉納されたあざ丸はその後、大宮司・千秋季光が所持したが、その季光は加納口の合戦で討死。引き継いだ陰山掃部助は合戦で両眼を矢で射つぶされている。また、のちにあざ丸を所持した織田信長の重臣・丹羽長秀もいつしか眼病に悩まされるようになり、周囲の勧めで熱田陣軍に奉納すると、眼病はピタリと治ったという。
歴代の所有者にあだなすあざ丸はそのため、いつしか妖刀として伝えられるようになった。
なお、景清が自らの両眼をくり抜き投げ捨てた場所が、宮崎県宮崎市にある「生目神社」で、現在も目の神様として信仰されている。
(道嶋慶)