長塚京三に目を見張った。公開中の吉田大八監督の「敵」で、主人公の元大学教授・渡辺を演じる。77歳という年齢設定は、彼自身の実年齢とほぼ同じである。妻を亡くし、瀟洒な古い家で一人住まいをしている。老いを演じる俳優は多いが、今回ばかりは恐れ入った。
元大学教授という職業柄、仕事はしている。講演や原稿執筆だ。講演料10万円以下では引き受けない。彼なりのプライドがある。連載していた原稿は休止を言い渡される。淡々と受けるが、ショックは隠し切れない。
人との付き合いでは、デザイナーの友人と時々飲みかわす。教え子やバーに勤める女性とも、ささやかな交流を続ける。孤立無援ではないが、しだいに「敵」が忍び寄ってくる。「敵」とは何か。メールから、その「主」はやってくる。原作は筒井康隆だ。
目を見張ったのは、忍び寄る老いの表現だ。椅子に座る。料理を作る。人と会う。眠る。横たわる。歩く。日常の何気ない動作において、演技を超越したような肉体の老いが、随所に感じられた。これはよくよく考えれば、凄いことなのである。
老いを演じる俳優は、老いの表現を演技の中でつかまえていくが、長塚は違う。地か演技かわからない。本来、どんな役柄であれ、地と演技は大きなかかわりを持つ。老いも同様だが、長塚が演じると、その境界がわからなくなる。
何気ない表情、動作、ちょっとした声の発し方に、老いた人間のしぐさが浮き彫りになる。老いてなければ表出しないような表情、動作、声なのだ。3人の俳優から、その違いを見てみよう。
昨年、実年齢90歳を超えた草笛光子の主演作「九十歳。何がめでたい」がヒットした。老いた役柄の中に、しだいに漲るような生気が戻る演技だった。ヒットの要因のひとつだろう。素晴らしかったが、長塚の演技は、それとは対極にある。
こちらもヒットした「PERFECT DAYS」では、役所広司が独り暮らしの清掃員・平山を演じた。役柄の年齢的には、「敵」の渡辺の方がかなり年上である。2人は実年齢でも違うから、役所には老いというより、ある種の「諦念」のような雰囲気が漂う感じがあった。
平山とは、小津安二郎監督の「東京物語」で、笠智衆が演じた役名だ。思えば笠智衆は老いそのものを演じたわけだが、その時、彼の実年齢は50歳前。その分、老いの演技を要求され、存分に応えはしたが、長塚のような生々しい老いの仕草はなかった。
長塚は日経新聞(1月26日付)のエッセイで、こう書いた。昨年の東京国際映画祭で最優秀男優賞を受賞した際のことだ。「壇上から名前を呼ばれて立ち上がった拍子に」「よろめいた」と。現実の話であるが、まるで「敵」の渡辺のようにも感じてしまった。
生身の肉体と演技の境目とは、いったい何だろう。老いを演じる時、俳優はどのような意識、意志をもって挑むのだろうか。「敵」にその答えがあるわけではないが、俳優という存在、演技というものを、深く考えさせられたのは事実である。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2025年に34回目を迎える。