中尾彬さんが、5月16日に亡くなった。享年81。報道の大きさに驚いた。スポーツ紙だけを見ても、日刊、スポニチ、報知の3紙が一面トップ。スポニチと報知に至っては、芸能面で2ページにわたった。
嬉しい報道ぶりだった。これは中尾さんの人生の逆転劇ではないか。芸能界のスタートが、決して恵まれていたとは思えないからだ。
それが様々な活動、メディアを通して発言の機会が多くなり、人々の目に触れる機会が増えた。幅広い層に人気が出た。俳優としても、着実に実績を積み重ねてきた。記事の背景には、そのような要素があると感じた。
俳優としての中尾さんには、かなり紆余曲折があったと推測できる。日活のニューフェイスとして芸能界入りしたのは、1961年のことだ。同期には高橋英樹がいた。
当時の日活は、1961年に赤木圭一郎が不慮の事故で亡くなったが、キラ星のごとくスター俳優が並んでいた。石原裕次郎、小林旭、和田浩治、宍戸錠、二谷英明ら主役クラスの俳優だ。
渡哲也が1964年にデビューし、高橋英樹も台頭するが、中尾さんは目立つ俳優というわけにはいかなかった。
絵画への志向が強かったらしく、本人の思いは複雑であったろうが、日活の栄えあるスターの一角を占めることがなかったのは事実だ。
デビュー時の20代で、中平康監督の「月曜日のユカ」(1964年)に出演した。加賀まりこ演じるユカのボーイフレンドを演じたが、キュートな加賀ばかりを見ていたせいか、中尾さんはどこか頼りなげで、それほど生彩がないように感じた。1970年代に名画座で、この作品を見た時の印象である。
ところが今、改めて見ると、中尾さんの魅力の片鱗が、画面に随所に刻まれていたのがわかった。日活作品の青春スター特有の面影が横溢していたのである。猪突猛進で不器用だが、純粋な心根の青年を演じていて、日活青春スターの王道を進んでいくような雰囲気があった。
ただ、その魅力は花開かなかった。フリーになってから、斎藤畊一監督の「内海の輪」(1971年)で主演し、高林陽一監督の「本陣殺人事件」(1975年)で金田一耕助役を演じたが、大きな飛躍には遠かった。
ところがさらに年月が過ぎ、1990年代に入ると、山下耕作監督の「極道の妻たち 最後の戦い」(1990年)など、東映のヤクザ映画が目立ってきた。伊丹十三監督の「ミンボーの女」(1992年)も含め、強面演技に磨きがかっていく。「ゴジラ」映画にも登場した。2000年以降では、北野武監督作品への出演も増えた。
映画をたどると、日活出身の俳優としては、全く稀有な道を歩んできたことがわかる。とはいえ、筆者が日活出身ということにこだわりすぎる気もしてきた。
俳優としてのエリートコースなど、中尾さんには無縁であったかもしれない。だからこそ、人生の逆転劇をなしえたのではないか。そう思えてならない。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2024年には33回目を迎える。