今年も映画賞発表の季節になってきた。俳優たちの動向から見てみると、より興味が深まるかもしれない。実力派俳優の活躍が目立つ年だったからである。
その中の一人が池松壮亮だ。この10年以上、常に日本映画の第一線で活躍してきた。主演作も多い。2010年代、2020年代を代表する作品が何本もある。すぐに挙がるのは「紙の月」「愛の渦」「ディストラクション・ベイビーズ」「セトウツミ」「映画 夜空はいつでも最高密度の青色だ」「宮本から君へ」「シン・仮面ライダー」「せかいのおきく」などだろう。
今年は3本の作品に出演した。公開順に「ぼくのお日さま」「ベイビーわるきゅーれ ナイスデイズ」「本心」だ。役柄に応じて、演じる趣が違う。当然のことだが、その演じ方には、彼独特の味わいがある。
「ぼくのお日さま」(監督・奥山大史)では、フィギュアスケートのコーチを務める元選手の役。何ものかを断念したかのように、静かな面持ちで教え子に接する。
池松の穏やかな声質、ゆったりとした振る舞い、滑らかなスケーティングなどから、この人物の優しい息遣いが伝わってくる。
教え子の女性から、自身のパートナー(男性)との関係をののしられ、言葉を失うシーンがある。そこで場面が切り替わる。彼の心情のせつなさが、これまでの断念の積み重ねとなり、別の画面になってもその刻印を残す。
「ベイビーわるきゅーれ」(監督・阪元裕吾)では、あるトラウマを抱え持つ殺し屋を演じる。切れ味のいいアクションに目を見張っていると、しだいに異常性を帯びた奇態部分が顔を覗かせる。
女性アクションものの人気シリーズ第3作目だが、池松が登場したとたん、映画の空気感が変わる。奇態の部分は、それほどエキセントリックに演じない。節操があるのだ。
アクション映画におけるこのような役柄だと、調子に乗って異常性をことさら強調する俳優もいる。だが池松は、そうならない。その程合いが絶妙なバランスを持つのだ。
「本心」(監督・石井裕也)は、亡くなった母のAIアバターとともに生きる青年の役だ。人にとって、亡くなった家族のアバターは必要なのか。必要ではないのか。本作はその答えを出さない。というより、双方に本質があるとも示さないのだ。
池松は、この答えを出さないという映画の核心部分を、まるごと受け入れたかのような演技を見せる。生前に聞かれなかった母の言葉を、純粋にアバターから聞きたいだけだ。
ただこれは、母の秘密の部分を知ることにもなりかねない、大変な賭けでもある。躊躇や動揺もあるが、最後まで受け入れる。複雑に見える世界が、そこからしだいにある輪郭を持ち始める。
3作品に共通している点がある。ある定まった方向に、彼の演技の型が振り切っていかないことだ。役柄の答えを出さない。しかもそれは、曖昧さとは別物である。
振り切りのなさが、やけに身に迫ってくる。人は今、複雑かつ、とても厄介な世界にいて、生きづらくなっている。ヒリヒリもし、その差し迫った感覚は、多くの人が感じていることでもあろう。
池松を見ると、妙に安心するところがある。そこでいいのだと、映画から語りかけているからだろう。現代映画の最前線にいる俳優だと思う。
(大高宏雄)
映画ジャーナリスト。キネマ旬報「大高宏雄のファイト・シネクラブ」、毎日新聞「チャートの裏側」などを連載。新著「アメリカ映画に明日はあるか」(ハモニカブックス)など著書多数。1992年から毎年、独立系作品を中心とした映画賞「日本映画プロフェッショナル大賞(略称=日プロ大賞)」を主宰。2024年には33回目を迎えた。