殺された恋人の仇に一矢を報いた、戦国時代の烈女がいる。織田信長の弟・信行(信勝)の侍女だった勝子(生没年不詳)である。勝子は信行の家臣・津田八弥と許嫁の関係だった。八弥は当初、身分の低い侍だったが、主君にその才覚を気に入られ、トントン拍子に出世していった。
ところが、出る杭は打たれる、というたとえがある。佐久間七郎左衛門という譜代の家臣が八弥を妬み、暗殺してしまった。周囲の証言から犯人を特定したが、時すでに遅し。七郎左衛門は家族を連れ、美濃の大名・斎藤道三の元に逃げたのである。普通ならそのまま泣き寝入りするところだが、勝子は違っていた。
七郎左衛門の消息を知ると、名を変えて道三の孫である斎藤龍興夫人の侍女となって潜伏。機会を待った。そして流鏑馬大会が催された際、七郎左衛門がいるのを発見。流鏑馬の矢を回収する矢取りとして接近し、忍ばせていた匕首を振るって刺したのである。
とっさの出来事で騒然となる中、勝子は血に濡れた匕首を振りかざし、大声で「我こそは、尾張織田家にその名も高き津田八弥が妻、勝子なり! この佐久間七郎左衛門に討たれし夫の仇、本日ここに報じたり!」と名乗りを挙げたという。だが、人を刺したショックで呆然と立ちすくんでいたところ捕縛され、場内に禁錮されてしまう。
その後、龍興夫人の手助けで城中から逃げ、徳川家康の家臣・大須賀五郎左衛門尉康高の元へ身を寄せることになるが、面目を潰された佐久間家は黙っていなかった。七郎左衛門の兄で、織田家の重臣・佐久間右衛門尉信盛が、勝子の引き渡しを要求。佐久間家と勝子の振る舞いに肩入れする大須賀家との対立が、信盛の主君・織田信長と大須賀の主君である徳川家康の間に、一触即発の状態を生むことになってしまったのである。
当時、同盟国とはいえ、織田家と徳川家の力の差は歴然としていた。しかも、自らに
歯向かう人間を許す信長ではない。この状態に、勝子は自ら命を絶ったという。
家康はその後、勝子の義烈を称賛して、手厚く葬ったと伝わっている。
(道嶋慶)