3年前に「文藝春秋」で歌丸にインタビューした作家の増田晶文氏はこう語る。
「その時、歌丸師匠は腰の具合が悪くて、『高座には何とか上がれますが、申し訳ないけど椅子に座らせてください』とお願いされました。わざわざ言わずに座る人もいるのに、丁寧な方だという印象が残っています。非常に勘がよくてこちらが7ぐらいしゃべると質問の意図をくんで、10の答えを返してくれました」
こまやかな気配りは、噺家として大成するうちに身につけたものなのか──。
1936年、横浜の真金町で生まれた歌丸は、色街で女郎屋「富士楼」を経営する祖母に育てられた。小学4年生の時には、ラジオから流れる落語に魅せられ、噺家になることを決意。中学3年生で新作の旗手として人気の古今亭今輔に入門する。だが二ツ目に昇進してから、古典派の歌丸(当時は今児)は師匠に反発して破門状態になってしまう。
「2年半の間、ポーラ化粧品の営業マンなど職を転々としていた。仕事のセンスはなかったようで、洗顔クリームとポマードを間違えて販売し、営業所にクレームがあったそうです」(演芸ジャーナリスト)
三遊亭扇馬(故・三代目橘ノ圓)の口利きで落語界に復帰。兄弟子の桂米丸の門下に移り、落語家として活躍しながら、「笑点」にも出演するようになった。
今でこそ高視聴率を連発しているが、立川談志が司会をしていた当初は視聴者の評判はよくなかった。
「談志はブラックユーモアが好きで、男女差別発言などが多かった。歌丸は自分たちの評判も悪くなると危機感を持ち、他の出演者に賛同を求めて降板することになったのです」(前出・演芸ジャーナリスト)
回答者が全員入れ替わると、視聴率は1桁に急落。局側は慌てて談志を降ろし、元のメンバーを復帰させると、たちまち人気番組に変貌していった。円楽は現在の「笑点」をこう見る。
「共演者の間には、きちんと落語をやっているという信頼感があります。大喜利だけで生きていたり、それをきっかけにただ売れて、金儲けをしている連中(噺家)だったら、自分たちは相手にしないのです。『笑点』を通じて、全国に落語を聴いてもらう機会を増やすことが大事。私たちはタレントではなく、落語家という自負があるのです」
来年で「笑点」は50周年を迎える。円楽は毒舌まじりにメッセージを送る。
「第1回から出演している最後の生き残りなんだから、お師匠さんがいて番組を迎えるのと、迎えないのでは番組の重みが違うので、死ぬんじゃねえってことです。死んだら面倒くせえから(笑)」
早くこの2人の掛け合いが見たいものだ。