政界を引退すること1回、落選も1回、プロレスラーは何度、引退したのだろう。そのたびに、地の底から「ファイアー」と叫びながら、はい上がってきた。大仁田厚のバイタリティの源は強靭な肉体なのか? それとも不屈の精神力なのか? その秘密に迫った!
背伸びした自分を捨て切れ!
「涙のカリスマ」「炎のカリスマ」、そして「邪道」‥‥。
プロレスラー、大仁田厚(54)には、さまざまな言葉が冠せられる。
大仁田は元政治家であり、俳優・タレントとしての顔も持つ。この多面性ゆえ、虚実ないまぜにも見えるプロレス界こそ、最も輝く場所だと信じるファンも多い。そのホームグラウンドで最初にして最大級の挫折が待ち受けていた――。
82年、プロデビューから8年後、大仁田はアメリカでNWAインターナショナルジュニアヘビー級チャンピオンというビッグタイトルを獲得。凱旋帰国を果たした。当時、所属していた全日本プロレスのライバル団体、新日本プロレスでは同じジュニアヘビー級の初代タイガーマスク(佐山聡・現在54歳)が華麗な空中殺法を駆使し、絶大な人気を博していた。
「佐山はヒーローでいいなってね(笑)。ただ、俺とはタイプが違うな、と」
周囲は大仁田にタイガーマスクに対抗する役割を期待していた。それに対して大仁田は、あえて反対のスタイルを模索していった。荒々しく、泥臭く、感情をムキ出しにして戦う。この姿勢は全日本ファンに支持され、大仁田をジュニアヘビーの雄にまで押し上げたのであった。
そんなやさきに、大仁田に試練が訪れる。
「あれは、83年4月の試合でのことだ。着地に失敗して、したたか膝を打ちつけてね。診察の結果は、左膝蓋骨粉砕骨折だった」
多少のケガは織り込み済みとはいえ、大仁田の負った傷はあまりにも重いモノであった。長期間の欠場を余儀なくされた。その間、全日本のジュニア戦線は大仁田不在のまま“物語”が進んだ。不屈の闘志で一度は復帰を果たしたものの、絶頂期のファイトが戻ることはなかった。
85年1月、恩師である故・ジャイアント馬場と元子夫人(72)の言を受け入れ、プロレスを引退する。
「正直、ケガをした時に限界を感じていた。爪先立ちをしてリングに上がっているみたいな。力んでいたんだな。『チャンピオンなんだから、人気を出さなければ‥‥』ってさ。妙なプレッシャーというか、自分を大きく見せようと思う大仁田厚がいるワケよ。でも、やっぱり人間、背伸びをしていたら長もちはしない。そんなことを考えていたら、限界という言葉が頭に浮かんできた。体力的にというより精神的にね。あれは悟りみたいなもんだよ」
絶望的な状況だったからこそ見えた道しるべ。文字どおりのケガの功名だったのか。それでも、その気持ちを素直に受け入れるまでには時間がかかった。
「タレントもやった。土木作業員もした。最後は4トントラックを運転してゴミ廃棄の仕事もした。生きていかなきゃいけないからね。でも、ファンにサインを求められると、つい『元チャンピオン』って書いてしまう。自分では、妙な背伸びは捨てたつもりでも、まだ捨て切れていなかったんだろう。だから、『捨て切るまでやってみよう』と思ったのさ」
30歳を目前にしての決意であった。
89年、みずからのプロレス団体「FMW」を設立する。
異種格闘家との抗争、有刺鉄線のロープ、そして電流爆破‥‥。ありとあらゆるデスマッチをこなした。そして、数回の「引退」や「追放」など、大仁田はリング外でもデスマッチを繰り広げた。
このスタイルを人々は「邪道」と呼んだ。「王道」を貫く全日本プロレスの出身とは思えないためだ。そして、「邪道」が大仁田の代名詞ともなっていった。
01年、そんな「邪道」はまたしても世間をアッと驚かせた。参議院選挙への出馬である。結果、自民党の比例区でみごとに当選を果たす。いわゆる「小泉チルドレン」の1人となったのだ。
「政治家になってみて、くだらないと思うところも多かった。政治家は闘うモノだと思っていたら、官僚が作ってきた資料をレクチャーされるだけ。国会審議という名のもとに時間を消費して、野党のガス抜きをする。それでも、野党は国民へのパフォーマンスなのか、平気で席を立つ。本来、パフォーマンスは俺の専売特許なんだけど(笑)。でも、それをなだめて呼びに行くのが俺の仕事、文教科学委員会の理事だったからね。そういうことに納得はしないけど、プロレスみたいに暴れるワケにもいかない。そういう意味では我慢を覚えたかもしれない」
我慢という“新たな技”を覚え、大仁田は順調に国政の場で出世街道を歩んでいく。大物政治家にもかわいがられたという。
しかし、「邪道」のムシが騒いだのか。小泉改革の目玉である郵政民営化に異を唱えたのである。
「俺は地方の出身だから、地方の郵便局のこともよくわかる。だから、そのまま『うん』とは首を縦に振れなかった。採決の1時間ほど前に飯島(勲)首相秘書官に呼ばれてね。『どうなの?』って迫られて、俺の考えを話したら、『小泉が帰ってきたら話してみる』とだけ言われた。古賀(誠)先生や野中(広務)先生からはバンバン電話がかかってくるし、あの法案に関しては小泉総理の意志が強かったから‥‥」
大仁田は採決を棄権。事実上、政党政治家としての命を絶ったに等しかった。
「大臣政務官というポストが目前でもあったんだけど、これで、出世が吹き飛んだと思ったよ」
決して「邪道」ではなく、自分の信念を曲げられない中での苦渋の棄権だったのだ。