2度目のヤクザ交際だった
寛平とヤクザとの交友関係が取りざたされたのは、今回が初めてではない。
94年に、寛平のイベント出演キャンセル問題を巡り、吉本興業を恐喝したとして、当時の山口組系組長が大阪府警に逮捕されている。
この事件は、愛媛県松山市で93年に地元の芸能会社が「寛平ショー」を企画したことに始まる。公演日を前に、地元紙が芸能会社のバックには山口組系組長がいると書き立てた。
それを受けて、吉本興業は寛平の出演をキャンセル。違約金として、実費などを芸能会社に代わって負担した。その金銭を受け取ったのが、逮捕された山口組系組長だと問題視され、事件化したのだった。
95年に、本誌はその山口組系組長の獄中手記を掲載し、大きな反響を呼んだ。その手記では、自身の無実を訴えるとともに、20年に及ぶ寛平との交友関係を詳細に記している。最初は売れない芸人の面倒を見るタニマチだった組長が、徐々に公私にわたる交際へと発展していく。その様子はまさに、「親密」と呼ぶにふさわしい内容だった。
例えば、寛平の妻である光代夫人に関しては、こう記されている。
〈結婚前に紹介されました。寛平が彼女を私の自宅に連れてきて、「今度、結婚しようと思っております」と言ってきたのです〉
そして、結婚資金が足りないという寛平に、100万円を渡していると記されている。
その後、寛平はこの組長を自分の結婚式に招待しているのだ。
手記にはこうある。
〈「ヤクザしておるから遠慮しとくわ」と、1度は断ったのです。しかし、寛平が、「(中略)かまわんです。身内の席に座ってください」と何度も言うので、承諾しないわけにはいきません。結婚式当日、(中略)会場内をカメラがウロウロしており、私は自分が映るのではと落ち着かず‥‥〉
そして、この結婚式の5カ月後に、組長自身の結婚式が開かれた。その式には、寛平が出席したことも記されている。
ところが、寛平はこの組長が裁かれた裁判に証人として出廷。組長の結婚式に出席したことは認めたが、自分の結婚式に招待したことは「記憶にない」と一貫して主張。最終的には、「ヤクザとは知らなかった。被告人とは1、2度しか会ったことがない」と交友を否定したのだった。
その交友関係にあった時期など、今回の事件と重なる部分も多い。