前座で集結した日本人アーティストは、歓迎の意を表して「ウエルカム・ビートルズ」という歌を全員で披露した。作曲はブルー・コメッツの井上忠夫(後に大輔に改名)で、この曲こそが日本の音楽史の分岐点だったと三原は解説する。
「ビートルズのコード進行って、これまでのパターンとまったく違っていた。例えば『CからAm』に行くとか『CからF』は普通だけど、『CからA♭』に行くような流れは考えられなかった」
あえて井上もそのスタイルを模倣して「ウエルカム・ビートルズ」を作ったのだという。また武道館直前に発表したブルコメ初のヒット曲「青い瞳」も、ビートルズの影響が色濃いと三原は言う。
「それでも、井上忠夫はテナーサックスとフルートが担当だったから、ビートルズ的な作曲はそこまで。むしろ『ブルー・シャトウ』のように和のテイストを持った方向に行きました」
ビートルズスタイルのバンドは、沢田研二がいたザ・タイガースがファッションも含めてそれに当たる。そして尾藤もまた、音楽の広がりが変わったことを肌で感じた。
「俺らがやっていたロカビリーは、3つのコードで曲ができていたり、せいぜい5つの音の循環コードくらい。これがビートルズはコード進行もリズムも今までにまったくない形で、日本のミュージシャンは誰もがびっくりしていたよ」
楽曲だけではなく、ステージにおいても彼ら特有のシステムがあったと三原は言う。
「僕ら前座のステージでは音響を抑えめにして、ビートルズの登場でガツンと上げるという計算だったね。あれで会場にいた人たちも一瞬にして興奮状態になっていた」
ビートルズは公演前夜に来日し、3日間が終了した翌日には次の公演先であるフィリピン・マニラに旅立った。日本での滞在は約103時間で、警備には延べ8000人が動員。来日中に補導されたティーンエイジャーは6500人を超えている。
あまりにも短いステージ時間などに批判の声もあったが、それでも、日本にロックを根づかせた功績ははかりしれない。そして三原は、帰国後の彼らのインタビュー記事で、こんな1行を目にした。
「ジョージ・ハリスンが『ブルー・コメッツのギタリストはうまかった』と言っていたんですよ。こっちは20歳かそこらの年だったから舞い上がったし、何より彼らも日本のバンドを気にしていたんだということもうれしかった」
尾藤もまた、50年が経った今でも「あのビートルズの前座をやった」という感激は消えない。ジョン・レノンとジョージ・ハリスンの2人が鬼籍に入っても「熱狂の武道館」という記憶は永遠に残る。