ついに、田中角栄は、政界の頂点・総理大臣に狙いを定める。だが、目の前にライバル・福田赳夫が立ち塞がり、田中はアメリカを舞台に大きな賭けに出る。田中の圧倒的なパフォーマンスは人々の心をつかみ、逆境を覆す。この胆力こそが、男の野望を実現する原動力なのだ!
田中角栄は、佐藤栄作首相に呼ばれ、首相官邸の首相執務室を訪ねた。1965年(昭和40年)5月末であった。
佐藤は、田中をソファーに座らせるなり、顔をほころばせ、上機嫌で言った。
「6月3日の内閣改造で、君に幹事長をやってもらうことに決めたよ」
田中は「幹事長」と聞き、浅黒い顔を引き締め、頭を下げた。
「ありがたく、お受けいたします」
田中は、心の中で凱歌をあげていた。
〈ついに、首相になるためのあとひとつの役をつかんだぞ〉
入閣候補はいくらでもいる。つまり、はっきり言えば、誰でもなれる。しかし、総理大臣というのはそうではない。やはり閣僚では蔵相、党では三役のひとつである幹事長、最低この2つをやらないとなれない。合わせて1本である。佐藤栄作、池田勇人、みなそうである。だいたい財政、経済もわからんヤツが、首相になれるわけがない。田中は、そう考えていた。
幹事長も大蔵大臣も、両方とも経済、つまり金を握っている。幹事長は、その上さらに、選挙の達人でなければ務まらない。
田中は、68年(昭和43年)11月30日、第2次佐藤内閣で自民党幹事長に再び就任。翌69年の総選挙で幹事長として指揮を執り、大勝利を収めた。
自民党288人、社会党90人、公明党47人、民社党31人、共産党14人、無所属16人で保守系無所属を加えると、300議席の大台に乗ったのである。
佐藤栄作も、この選挙の結果に上機嫌であった。
この時の小沢一郎ら初当選組が、後の田中派「木曜クラブ」の中核になる面々である。ひとつの派閥の中で同期当選組は、たいてい4、5人しかいない。が、69年初当選組に限っては、後に田中派となる者が17人もいた。
田中の下で当選した彼らは、「田中派の初年兵」を自任していた。
田中角栄は71年(昭和46年)7月5日、佐藤内閣改造で通産大臣となり、田中のライバル・福田赳夫は外務大臣に就任した。 その年の暮れ、佐藤総理は福田外務大臣に、首相官邸の応接室で言った。
「実は福田君、ニクソン大統領から、来年早々カリフォルニア州のサンクレメンテで会いたい、と言ってきた」
佐藤は、ニクソンとの沖縄返還交渉を締めくくるその会談を花道として、引退するつもりであった。
佐藤は福田に、その年の秋頃から2、3回身内に話すような親しさで語っていた。
「さて福田君、田中君にはいつ話すかな」
つまり、自分が総理を引退した時、次に福田に政権を渡す、と決めていることを、いつ田中角栄に打ち明けようか、ということであった。
福田は、佐藤からの禅譲(ぜんじょう)を信じ切っていた。余裕のある勝者の口調で言った。
「田中君にお話があるというなら、サンクレメンテは、いい機会じゃないですか。同行をお願いしたら」
福田だけを同行させれば、総裁選に向けて福田の株がはるかに上がるはずだ。しかし、田中は今回の日米首脳会談の話を聞きつけ、強引に割り込んできた。
「経済面で問題が多いから、私も行かなければなりません」
佐藤は、田中の要求をむげに蹴るわけにもいかず、このような形で福田に了承をとり、同行を認めたのである。
作家:大下英治