その後、佐藤昭は田中の初めての選挙の応援弁士と結婚したものの、いつしか夫婦仲は冷えていった。
52年(昭和27年)2月23日、所用から自宅に戻ってきた昭は、不審に思った。家の脇に続く塀に、紺色の高級車ポンティアックが横づけされている。
〈誰だろう、こんなところに‥‥〉
家の近くまで来た時、ポンティアックの窓が開かれ、ひとりの男が顔を出して声をかけてきた。
「奥さん!」
何と、田中角栄ではないか。
昭は、思わず顔をひきつらせた。夫の事業が傾いてからというもの、田中と夫の仲は険悪になっていた。夫は、田中に世話になりながら不義理をしていたらしい。たびたび、田中土建の社員が押しかけていた。いよいよ、社長本人が借金を取り立てにやって来たのではないか。
昭は頭を下げた。
「本当にご無沙汰しております」
まさに3年ぶりの再会であった。田中は右手を挙げて「やあ」と昭に答えると、独特のダミ声で訊ねた。
「ご主人は?」
「不在なんです」
「そうか、ちょっと話があるんだが、車に乗って下さい」
ポンティアックは、轟音を立てて走り出した。昭はさすがに不安になった。
〈田中先生はどこに行くつもりなのだろう〉
車で連れて行かれたのは、1軒の料亭だった。
「ちょっと、ひと部屋借りるよ」
田中は出てきた女将に告げると、ずかずかと入っていった。どうやら、かなり馴染みの店らしい。
田中は、出されたおしぼりで首筋を拭いながら切り出した。
「今朝、選挙区から帰ってきた。君たち2人が離婚するという話を聞いて、あわてて訪ねたんだよ」
昭はホッとした。どうやら、夫の田中に対する不義理の話ではないらしい。やっと落ち着いた。
田中が、苦笑いしながら続けた。
「ところが、2人ともいない。仕方なく帰ろうとしたら、近くでボヤがあって道が通行止めになったというんで、解除されるまで待っていたんだ。そこに、君が帰って来たっていうわけだよ。ボヤがなければ、君とは永久に会えなかったかもしれんな」
「そうですね‥‥」
田中が首を傾げた。
「しかし、なんでまた離婚などと?」
昭は、さすがに言いあぐねた。
東京に知り合い1人いない昭である。これまでの自分の苦しみを打ち明ける人すらなかった。親戚たちにも、これまでのいきさつは一切話していなかった。それだけでなく、親友の瀬下さだを始めとした、友人や知人たちとの交際すら断っていた。
ましてや田中に頼ることなど、まったく考えも及ばなかった。が、昭は問われるままに、包み隠さず打ち明けた。
「そうか‥‥」
田中は、ため息まじりに言った。
「しかし、もう一度よりを戻すことはできないのかなあ」
「主人も出て行けと言っておりますし、私も出ていく決心をしました。明後日にはあの家を出ます」
「覆水盆に返らず、だな‥‥」
田中は持っていた鞄から、便箋を取り出した。
「まあ、そこまで行ったら、仕方がないな」
田中は、便箋に何やら書き始めた。
「これをご主人に渡しなさい」
昭は夫に会い、書いてある内容を知らぬまま、その手紙を手渡した。
夫は田中の手紙を読むと、離婚を了承した。
その年の10月の選挙で、田中は6万2788票を取り、初めてトップ当選を果たした。
昭と共に食事をしていた田中は、満面に笑みをたたえながら誘った。
「俺の秘書として、働いてみるつもりはないか」
待遇も、若い女性としては破格であった。当時、秘書の給料は一律に1万9800円であったが、それに200円足した2万円にしてもらったのだ。
作家:大下英治