円山町と巣鴨を線で結ぶ男
「支える会」が私に依頼したのは、「被害者が他の男性と遺体発見現場となったアパートに出入りしていないか」だった。その目撃証言を集めることが主任務である。そうした意味では、釜田や織田を追うことは、行き過ぎた行為だった。
それでも、釜田を追跡せずにはいられなかった。それは前号でも記したように、釜田は事件前から被害者と接点を持っていた。被害者を仲間内で「Nちゃん」と呼び、「2000万円持っている」と話していたという。
そして、私に釜田を引き合わせてくれた女性、Kはこうも話していた。
「Nちゃんは事件前にひったくりにあっているんだけど、たぶん釜田がかかわっていたんだろうね。その直後から釜田は『Nちゃんは東電の社員だ』と話していたんだよ」
また、釜田と巣鴨を結ぶ線についても、こう話した。
「事件が起きる4年前に、私は白山で仕事をしていたんだけど、『都営三田線を使っているなら、巣鴨で飲もう』と言われて、巣鴨の街を案内されたことがある」
さらに、釜田と同居していたことがある女性はこうも話した。
「釜田の実家は都電荒川線沿いにあって、巣鴨の温泉施設に連れていってもらったことがある」
この温泉施設は定期券入れが捨てられていたS荘の目と鼻の先であった。
私は釜田への疑惑を強めた。しかし、釜田は私に包丁を突きつけて以来、DNA鑑定を恐れてか、タバコの吸殻さえ円山町に残さない警戒ぶりである。
そこで、私はまずは織田の足取りを追ったのだ。
織田は巣鴨のアパートを引き払った後、杉並区、中野区、豊島区と住居を転々としていた。寿司店も辞めて無職となり、生活保護を受けるほど困窮していたこともわかった。
そして、織田を調べて半年が過ぎたころ、織田が死んでいたことがわかった。栃木県内の織田の実家を訪ねた。織田の兄と母が住んでいた。その兄が、私にこう話した。
「02年の11月でした。警察から電話が来て、『弟さんが大塚の公園で変死していたので解剖したい』というものでした。私は都内の病院に行きました。酒の飲みすぎですよ。弟が倒れていた場所には酒瓶が転がっていたそうですから。唯一の所持品だったカバンには手帳と汚れた小銭しかありませんでした」
私は理由を話し、その手帳を見せてもらった。98年10月から00年までの日記であった。織田が受けた病院での治療のこと、魚の調理法など細かく記されていた。そして、02年の手帳を買ったことまで記されているのに、釜田に関する記述はまったくなかった。
事件当時の97年の手帳も遺族の元にはなかった。徒労に終わった虚脱感におそわれた。