芸能人が殺人を犯す。あるいは、今なお解けない謎を残してみずからの命を絶つ。こうした「怪死」の数々を、歴代記者たちは独自の方法で追いかけた‥‥。
「殺された女性の実家が岡山にあった。訪ねると父親が『よく来た、よく来た』と言って、そこから克美しげるへの恨みを、娘さんの遺影の前で延々と2時間ほどしゃべってくれた」
76年に入社した週刊アサヒ芸能OBのA氏が振り返る。その年、5月8日に起きた歌手・克美しげるの愛人殺害は、かつて紅白にも出場した人気者が落ち目となり、そのカムバックに邪魔だからという理由が、いかにも“芸能界然”としていた。
克美は妻子がありながら愛人に近づき、ソープ嬢(当時はトルコ)までやらせて金を貢がせた。
「父親は『娘を殺したのは、かなり前から計画を立ててのこと』と克美が告白した録音テープも持っていた」(前出・A氏)
克美は83年に仮出所し、翌84年1月5日号から、「木枯しの歌が聴こえる」という告白連載を始めている。編集部にもたびたび顔を出したが、やがて主宰したカラオケ教室での女性とのトラブル、さらに覚醒剤使用で逮捕と“木枯し”が吹きやむことはなかった。
この克美より早く、芸能人として初めて殺人を犯したのが、肉体派女優・毛利郁子である。69年12月14日、毛利は長らく不倫の関係にあった興行プロモーターを刺殺。その前年に週刊アサヒ芸能に配属されたM氏は、毛利の高知の実家や公判を追った。
「実家は布団店だったけど、事件が事件だけに、両親には会ってもらえなかった。公判でも彼女には同情の声が集まっていたね」
当時、毛利は7年もの不倫を重ね、2歳の子もいた。それでありながら別れ話を切り出されるという男の身勝手さに、大映の永田雅一社長や勝新太郎らが減刑嘆願書を出している。
「さらに、事件直後なのに出演作の『秘録怪猫伝』は公開中止にならず、むしろヒットを記録していたよ」(前出・M氏)
83年6月28日、新宿・京王プラザホテルの47階から飛び降りたのは、スター俳優・沖雅也(享年31)だ。
「おやじ、涅槃で待ってる」
遺書の最後に書かれた一文は「ねはん」という聞き慣れない用語の力もあり、流行語になった。芸能レポーターの故・梨元勝氏は、中継でこの字が読めずに大汗をかいたエピソードがある。
沖の事務所の社長であり、養父でもあった日景忠男氏は、週刊アサヒ芸能にも何度か登場したが、2人の密接な関係については否定した。
当時、芸能班だったO氏は、思いがけない動機にたどりついた。
「大島渚監督に聞くと『戦場のメリークリスマス』で坂本龍一が演じた役の最終候補に沖を入れていたと証言しました。ところが沖は、精神的に悩んでいることを打ち明け、そのせいもあって候補から外された。そのことがよほどショックだったらしく、それから自殺未遂とも思われた運転事故も起こしていた」
さらに自殺した当日は、フジテレビの「大奥」で徳川家光役を演じ、劇中で死を迎えている。ドラマは放送中止を免れたが、いかにも自殺のタイミングを合わせた“美学”が見え隠れする。
最後は、松田聖子や河合奈保子と同じ80年に歌手デビューした甲斐智枝美(享年43)である。06年7月10日、千葉県内の自宅の2階で首をつっているところを家族に発見されている。
遺書もないことから動機がわからなかったが、I記者は、足取りをたどるうちに甲斐がバイト勤めしていたスナックを偶然、発見する。
「店のママは、昼間は花屋でバイトしている甲斐が、さらに夜も3日ほど働きたいと言いだしたことを心配した。聞けば夫の月給が10万円も減らされたこと、そのため、夫の親との2世帯住宅から独立する夢がついえたことなどを甲斐から聞かされた」
そしてママは、記者に1枚の写真を差し出した。自殺の5日前、スナックの客と楽しそうにデュエットしている“最後の写真”である。
「ママはスナックのバイトが終わっても深酒をして家に帰りたがらない甲斐を心配していたが、まさか、あんな突発的に死ぬとは思えなかったと明かした」
原因の一つとされた不仲の義父は、直撃に、「全てノーコメント!」と声を荒らげている。