「田岡さんが撃たれた‥‥こんなことが起こるなんて、本当に驚きました」
通称「ベラミ事件」発生時の感想を、大谷氏はこう振り返る。
78年7月11日、京都・三条大橋のナイトクラブ「ベラミ」で田岡組長が何者かに首筋を狙撃された。折しも山口組は、75年から松田組と「大阪戦争」にあり、その延長にある事件ではないかと同年7月13日号は報じている。この半月前、松田組の樫忠義組長宅に6発の銃弾が撃ち込まれていたのだ。続く7月27日号では、目撃者の貴重な証言を伝えた。
〈突然、パン、パンという、クリスマスのときに鳴らすクラッカーみたいな音が、二度、聞こえてきたんですわ。一瞬、なんの音やろ思うて前を見たら、一人の客が腹をおさえ、同じテーブルのもう一人が右肩をおさえてうずくまっとる。だれかが『ピストルや!』と叫んで、はじめて店内が大騒ぎになったんですわ。私が、もう一人の客が首筋をおさえとるのを見たのはそのあとです〉
田岡組長は51年7月に心筋梗塞を発症しており、それまで長く病の床にあった。11年間の入院生活を終えて「関西労災病院」を退院、「ベラミ事件」前年の夏頃から旅行やナイターに出かけていたことを7月27日号はあわせて報じている。「ベラミ」に月に1回程度は顔を出しており、そのことを知った犯人は約半年前から「ベラミ」へ通い、チャンスを狙い続けていたのだ。
その犯人こそ、松田組の三次団体「大日本正義団」所属の鳴海清組員だ。しかし、9月17日、鳴海組員は六甲山山中の谷底で、激しい暴行を受けたと思われる惨殺死体で発見される。損傷が激しく、最終的には「足紋」で本人と確認したほどだった。前出・大谷氏もその取材にあたっていた。
「当時は、警察よりも早く鳴海を探せー! という号令のもと、走り回っていました。結局は警察よりもマスコミよりも、ヤクザのほうが鳴海を探すのが早かった。つまり、ヤクザの暴力装置としての実力のほうが上だったわけです」
81年7月、田岡組長が心筋梗塞によって死去した際には、対面した大幹部から貴重な証言を引き出す。
〈苦しんだ様子はなく、きれいな死に顔だった〉(8月6日号)
翌82年2月には大阪刑務所に服役していた山本健一若頭が、肝硬変のため、56歳で急逝。
〈予定通り出所すれば、ただちに田岡組長の死後空席になっている四代目に就任する予定であった〉(82年2月11日号)
山口組は跡目を巡って分裂、一和会との4年にわたる山一抗争が勃発する。抗争において、四代目・竹中正久組長が暗殺。一般市民を恐怖のどん底に落とす熾烈な事件が繰り返された──。現在でも「ヤクザ」は週刊アサヒ芸能の真骨頂である。
「昨年の山口組分裂騒動は、過去の事件とは時代も状況も違う。きっと、長い長い闘いになると想像しています」(前出・大谷氏)
築き上げ育ててきたインサイダー情報網と、正確な報道は、たとえ「山口組」が分裂したあとも、いささかもぶれることはない──。