現役時代は巨人の遊撃手として活躍し、引退後は万年Bクラスに低迷していたヤクルトを1回、西武を2回、日本一に導き、日本初のGM職も務め上げた。長きにわたるプロ野球史の目撃者・広岡達朗氏(84)が、巨人V9を成し遂げた川上哲治監督との対立も含め、みずからが体験してきた球界秘話を初めて明かした。
「先日、広島カープの担当記者に『おい、今年はインチキせずに優勝できたな』って言ったら、若い記者は『何のことですか?』と言っていましたよ。ヤクルト監督時代、広島市民球場で非力なバッターにホームランをよく打たれることがあった。私はすぐに、おかしいぞと疑った。スコアボードを凝視していると、2枚くらいパネルが開くんですよ」
76年にヤクルト監督に就任した広岡氏は、79年の広島優勝の時は同一リーグのライバルだったが、その舞台裏をこともなげに語る。
「すぐにうちのオーナーの松園尚巳さんに伝えたら、怒られたのは私のほうだった。『スポーツマンがサイン盗みのインチキなんてするか!』と。でも、確信はあったので、のちに広島の関係者にサイン盗みについて問いただしたら、『のぞいていました』と白状したんだよ」
昭和のプロ野球では、一時期、サイン盗みの不正行為が横行していた時代があったとも言われている。
「当時のプロ野球は、水面下で駆け引きや足の引っ張り合いがあった。今は、他のチームの選手と一緒に自主トレを行ったり、仲よしこよしでやっているが、私が現役、監督だった頃は、壮絶な戦いがあった。インチキをやってもバレなければ、周囲からの名声を得ることができる。それだけ監督、選手が勝利に執着していたんですよ」
こうした中で監督に就任した広岡氏は、グラウンドの内外において、“広岡イズム”を徹底させることで弱小チームを改革していったのだ。特に重視したのが体調管理である。
当時のプロ野球界には、二日酔いで平然とグラウンドに現れる破天荒で豪放磊落な選手たちが多くいたが、広岡氏は一刀両断した。
「キャンプから揚げ物中心で味付けの濃い仕出し弁当をやめて、玄米菜食の食事に切り替えた。巨人の選手たちは、夏場になると試合中でもコーラを飲んでいたが、太るだけでケガにもつながりかねない。だから、選手たちには豆乳を飲ませていましたよ」
選手から反発はあったが、チームが勝ち続けることで不満の声は消えていったという。