現在、東京都知事として東京五輪、豊洲市場移転などの諸問題に鋭く切り込み、その一挙一動が衆目を集める小池百合子。しかし、これまでの道程は決して平坦なものではなかった。体制と逆境に挑み続ける女傑の波乱に満ちた歩みを、膨大な取材をもとに浮き彫りにする!
小池百合子は、かつて私に語ったことがある。
「『嫉妬』という字は、女偏でしょう。しかし、永田町の男たちを見ると、男性議員の方がはるかに嫉妬深いわよ。これからは『嫉妬』という字の女偏を、男偏に変えるべきね」
小池は、若い時から男たちに負けず戦い続け、ついに東京都知事の座を掴み取った。
女性は、20代や30代なら「可愛い」「綺麗」「若い」という理由でチヤホヤされるかもしれない。が、その後は、中身が問われてくる。人生を80年と考えれば、20代、30代などあっという間に過ぎてしまう。
そこで、小池は、20代、30代は自己投資という人生設計を立てた。特に19歳からの数年間は、自分に対する最大の投資のつもりで世界のあちこちを歩き、土地勘を養い、人脈を築いた。
その際に小池は、中東という切り口から入った。
小池は、関西学院大学社会学部に入学するものの、アラビア語通訳を目指すことにし、1971年(昭和46年)9月に大学を中退してエジプトへ留学した。
その後、小池は、72年(昭和47年)10月、カイロ大学文学部社会学科に入学した。
入学式はなかった。その代わり、日本ではとても考えられないことをさせられた。軍事教練である。小池は、他の女子学生とともに、グラウンドを走ったり、匍匐前進をさせられた。男子学生は、銃の持ち方まで教わっていた。
日本人留学生でカイロ大学を正式に卒業したのは、それまで1人しかいないと聞いていた。それも、根気よく10年も勉強してのことだった。日本人だけでなく、アラビア語に精通しているアラブ諸国の学生を含め1学年800人近い学生も、翌年には5分の1は進級できずに脱落していく。日本人留学生の間では、卒業できないのは暗黙の了解としてあった。
が、小池は誓っていた。
〈必ず、卒業してみせる〉
小池はそのうち、日本人留学生の中の1人の男性に魅かれた。3歳年上の彼は、アジア・アフリカ語学院を出てカイロ大学に来ていた。どちらかといえば学者タイプで、卒業後は報道の仕事をしたいと言っていた。
周りの男子留学生と同じようなたくましさを秘めながらも、柔らかな雰囲気も持っている。その柔らかさが、両親からの仕送りもなく独りで精いっぱい生き切ろうとする小池には、よりどころになった。
「きりがいいから、入籍しましょう」
彼よりも、小池がリードして入籍した。
2人の生活が始まってからほどなく、カイロ大学で学生運動が激しくなった。
エジプトの学生たちは、サダト大統領に向けて叫んだ。
「中途半端なことをしている場合ではない。戦争を起こして、早く決着をつけろ!」
日本の学生運動といえば、反戦、平和を掲げて政府に戦いを挑む。ところが、エジプトでは「早く戦争をしろ」と突き上げているのである。そんな中でも、授業は行われた。
ある時、カイロ大学のキャンパスで反政府運動をする学生たちに軍が催涙ガスを撃ち放った。一瞬にして、小池は真っ白い煙に包まれた。目から涙が流れ、授業どころではない。キャンパス内は大騒ぎとなった。
小池は、73年(昭和48年)10月6日、アルアハラム新聞の一面を見て声を上げた。
「いよいよ、戦争が始まった!」
新聞の大見出しには、真っ赤な文字で「戦争勃発!」と書かれていた。
エジプト側が珍しくイスラエルに奇襲攻撃をかけ、いわゆる、第4次中東戦争の火蓋が切られたのだった。第3次中東戦争(6日戦争)の時、先手を打って圧勝したイスラエルに対し、今回はアラブ側が先制攻撃をしかけた。
アラブ側はソ連製の比較的優秀な武器などを使用したこともあって、一時イスラエルは苦戦を強いられた。第2次世界大戦以降、両陣営がほぼ同等の兵器をもって対峙した数少ない例である。
アラブ側は、緒戦でスエズ運河周辺のイスラエルに大損害を与えたものの、イスラエルが巻き返しを図り、逆にアラブ側が苦戦することとなった。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。