小池は、キャスターとして人前で話すことには慣れているつもりだったが、人に強く訴えかけるアジテート型の話はできなかったし、絶叫するのは恥ずかしい。さらには、知らない人に手を振るということが、わざとらしくも思えた。
が、選挙に出た以上、手を振らないわけにはいかない。ぎこちない手つきで、手を振った。
名古屋市郊外の駅前で、小池は街宣車を背に手を振っていた。すると、目の前に車が止まった。小池が立っている側の後ろのドアが開いた。なんと、あまりにも手の振りかたがぎこちないため、タクシーの運転手が、タクシーを止めるために道路に出ているのだと勘違いしたのだった。とにかく、何が何だかわからないままに、小池は全国を飛び回った。
7月22日に投開票が行われ、日本新党は細川、小池ら4人が見事に当選を果たした。
小池は8月7日の初登院の日、モスグリーンのジャケット、豹柄のスカートと、まるで探検隊のようなサファリルックで登院した。取材に来ている新聞記者たちが、小池を取り囲んだ。
「何でそんな格好で登院したのですか」
小池は言った。
「永田町には猛獣や珍獣、タヌキがいると聞きましたので、こんな格好で来ました。一票の重みを、バッヂにずしりと感じます」
気の利いた小池のコメントに、新聞記者たちは翌日そのことを書いた。
小池は、そのことでさっそく参議院の懲罰委員会にかけられそうになった。
「参議院の品位をおとしめる行為である」
ということらしい。
小池は平気だった。
〈ああ、政界とはこういうところなんだな〉
93年(平成5年)には、日本新党は地方選挙で勝利を重ね、「台風の目」となっていた。既存の政党にうんざりした無党派層が、期待を寄せ始めていたのだ。
細川は、自信に満ちた口調で言った。
「次の目標は、衆議院選挙です」
小池もそのつもりであり、密かに心に誓っていた。
〈政権交代するその日まで、髪は切らないでおこう〉
キャスターの時から、髪の毛は短めにしていた。伸ばそうと思っても、つい面倒になって短めにしてしまう。毎日髪の毛の手入れに費やす時間を一生に換算した時、その時問がとてももったいなく思う。合理的な考えの持ち主である。
同年6月18日、宮澤喜一首相は、衆議院を解散した。
細川、小池をはじめとした日本新党は、大きな目標を掲げていた。
「大いなるキャスティングボートを握ろう」
小池は、細川に言った。
「私も、代表と一緒に衆議院に移ります」
細川は、さすがに止めたかった。
「それは、やめておいたほうがいい。大変ですよ」
が、小池は一歩も引かなかった。
「参議院は比例区ですから、小島慶三さんと円より子さんが繰り上げ当選になる。党には痛みがない。とにかく頭数です」
結局、日本新党は追加公認を含めて57人を擁立、細川と小池は参議院から衆議院に鞍替えした。
小池は、兵庫2区から打って出た。兵庫2区は、尼崎市、西宮市、洲本市、芦屋市、伊丹市、武庫郡、川辺郡、有馬郡、津名郡、三原郡が選挙区域であり、定数は5議席。日本社会党の土井たか子の地盤である。
小池の初回の選挙は、参院比例区であったが、今度は衆議院議員の選挙区選挙である。選挙戦は、いっそう厳しさが増すことが目に見えていた。ただひたすらあちらこちらに回ってポスター貼りをして、「よろしくお願いします」を連呼した。
だが小池は、「旧態依然の選挙戦も改革が必要」とマイペース。たすきや白手袋はなし。選挙カーでは名前の連呼をやめ、マイク放送の合間に鳥の声を流した。
大下英治(作家):1944年、広島県生まれ。政治・経済・芸能と幅広いドキュメント小説をメインに執筆、テレビのコメンテーターとしても活躍中。政治家に関する書籍も数多く手がけており、最新刊は「挑戦 小池百合子伝」(河出書房新社)。