全学連の安保反対と樺美智子さんの死、海外ではベトナム戦争が激化し、時局は混沌とした。ゼンガクレンは海外に名をとどろかせ、その後の70年安保から赤軍派の武力闘争へとなだれこんでいく。また65年、米軍が北爆を開始してベトナム戦争は泥沼になった。
渡米してアイゼンハワー大統領と安保条約改定を調印しようとする岸首相を阻止しようと午後5時ごろ、制服の全学連が羽田に集結を始め1月15日夜7時には約500人がロビーに座り込んだ。
深夜に警官隊が実力行使に入るという情報を聞き、学生はロビー横の食堂にかけこんだ。
アサヒ芸能1960年2月7日号では、記者がデモ隊にまぎれこみ、緊迫の現場を同時進行ルポしている。
〈イス、テーブルが外に運び出され、見る間にバリケードが築かれて行った。
「みんな、コショーを持つんだ。警官に投げて目つぶしにしよう」〉
すると、蒲田警察署長を先頭に警官隊がロビーに入ってきた。その数約2000人。
11時半には東大生200人によって弁天橋の検問所は破られ、空港にいる500人と合流した。
16日午前3時、「かかれ!」の署長の号令で、警官隊はトビ口で食堂入口の窓ガラスを叩き割った。
イスやテーブルのバリケードを取り除いた警官隊は2列になり、ゴボウ抜き戦術でスクラムの先頭を強引に引き抜いていく。
警官隊は食堂入口の壁を壊しはじめ、食堂のシキリの大きなガラスを打ち破った。
そのとき、警官隊の隊列が大きく揺れた。コショーがまき散らされ、あちこちでクシャミが起った。
警官隊の波状攻撃で、全学連は半分近くに減ってしまう。そこで食堂の中央にあるシャッターを下ろすと、警官隊は手も足も出なくなった。
すると機動隊長に指揮された警官隊が国内線寄りの入口から食堂内へ殺到し、全学連は唐牛委員長の笛に合わせスクラムを組み対峙する。
「女子学生は前衛隊となって対抗せよ」唐牛委員長の指示どおり、白や赤のネッカチーフをかぶった女子学生は、警官隊の前にたちはだかった。
警官隊は一瞬たじろいたが、女子学生を排除しだす。大柄な女子学生が肩をつかまれ、前に引き出された。
そのうしろでは、白っぽいジャケットを着た女子学生がうずくまっていた。
食堂には便所がひとつもなく、こらえきれなくなり、座り込んだのだ。
捕らえられた学生は警官に囲まれ、私服の公安課員が一人ずつ首実検のすえ、幹部はトラックで蒲田署や警視庁の留置場へ直行、その他はソニー工場前まで運ばれ、雨の中へ放り出された。
鉄のシャッターは開けられ、警官隊がなだれこんだとき、イスのバリケードに乗っていた唐牛委員長が床に飛び降りた瞬間、手首に手錠がはめられた。
1時間半に及ぶ乱闘の末、全学連は排除され、岸首相はその数時間後、空港を飛び立った。