「コンピュータ業界」を選ぶまでの沈思黙考500日!
学生時代に1日1発明を自分に課した孫正義氏が1980年代初頭に実社会に出てまず行ったのは、一生を捧げる業界の選択だった。驚異の探究心で各業種を1年以上かけ研究。結果導き出された「コンピュータ業界」の土俵で、総資産6800億円、年収93億円という長者日本一への道を猛進していく─。
「メダカの子」か「鯛の子」か
孫正義は、1980年3月、カリフォルニア大学バークレー校を卒業すると同時に、日本に帰った。
福岡市内の古いビルの二階に、企画会社としてユニソン・ワールドという社名で事務所を構えた。
会社を登記する時、自分の名前を「孫正義」と書き込んだ。それまでの日本姓である「安本」を捨て、代々伝わる韓国名の「孫」姓を名乗る決意をしたのである。
親戚たちは、懸命に止めた。
「正義よ、お前は、まだ子どもだからわからないんだ。学生上がりで、世の中ってもんがわかっていない。韓国名の孫の名前で出ることが、どれだけのちのち苦しむことになるのか‥‥。悪いことは言わん。安本の名前で行け」
孫は、耳を貸そうとはしなかった。
「ぼくは、みなさんのように苦しい体験をしていないから、確かにわからないところがあるかもしれない。しかし、ぼくの人生です。どんなにつらいことがあったとしても、それはそれでいい。そんなコソコソ隠すような人生は、ぼくには合いません」
「そんなきれいごと言っても、実際には銀行が金を貸してくれなかったり、お客や社員がとりにくくなるんだぞ」
「いや、国籍の違いで離れていくような人は、むしろ自分が後で恥ずかしい思いをするんだ。ぼくから言わせれば、そういう人たちのほうがかわいそうな人ですよ。物事の本質を見られない人間ですからね」
孫にとって大きな決断であった。
〈問題は、どの土俵を選ぶかだ。一度選んだらこれから何十年も闘わねばならないのだ。その土俵選びのためなら、1年かけても2年かけてもいい〉
孫は、自分のスタートにもっともこだわっていた。
〈メダカの子どもで生まれるか鯛の子どもで生まれるか。それとも鯨の子どもで生まれるか。同じ子どもでも、何の子どもで生まれるかで、成長したときの大きさは大抵決まってしまう。確率論から言えばそうなる。もしも、規模が小さく、てっとり早い業種から始めれば、10年先、20年先はかならず頭打ちになる。そのたびに業種を替えていかなければならない〉
孫は、土俵を選ぶための条件をまずノートに書き出してみた。
「儲かる」
「ビジネスにやりがいがある」
「構造的に業界が伸びていく」
「資本がそれほどなくていい」
「若くてもできる」
「将来の企業グループの中核になる」
「自分自身やりがいを感じる」
「ユニークである」
「日本一になりうる」
「人を幸せにできる」
「世界中に拡大できる」
「進化を味方にできる」
その数は、25項目にも及んだ。
孫は、ひとつひとつの要因に指数をつけた。例えば「新しさ」の指数は20点満点。「世の中の役に立つ」は50点満点。「小さい資本でできる」が30点満点というようにしながら、眼をつけたバイオテクノロジーや光通信、ハードウエアの販売といった40もの新しい事業の切り口を持った事業プランに点数をつけていった。総合点がもっとも大きいものに一生を捧げるつもりだった。
アルバイト社員の2人には、いつも熱っぽく語っていた。
「おれは、5年で100億円、10年で500億円、いずれは何兆円規模の会社にしてみせる」
孫は、40もの事業アイデアひとつひとつに対しての資料を膨大に集めた。スタートから10年間のビジネスプランを作り、予想損益計算書、予想バランスシート(貸借対照表)、予想資金繰り表、予想人員計画、マーケティングプラン、競合分析、市場規模の大きさ‥‥まさにしらみ潰しに調べた。自分なりの新しい切り口で、圧倒的なナンバーワンになれる決定要因を考え抜いた。