判決から1年がたってなお、厳しい薬物断ちの現実と、重い糖尿病との闘いがのしかかっている清原和博をさらなる試練が襲った。逮捕以降、多くの人たちに見捨てられていく中、物心ともに支え続けてくれた最大の支援者が突然みずから命を絶ったのである。絶望の淵に立たされた清原は自責の念から号泣し、祈るばかりだった──。
巨体を窮屈に丸め、出棺する遺体に向け、手を合わせる。祈りをささげる顔は青黒く、目元を赤く腫らしていた。参列者が故人の名を呼び、最後の別れを惜しむ中、清原和博(49)はただただ唇を震わせ、嗚咽を漏らすだけだった。
昨年12月24日放送の「ニュースキャスター」(TBS系)のインタビューに応じて以来、久しぶりに清原が公の場へと姿を現した。しかし、茶髪にツーブロックという風貌は現役時代さながらの風格を漂わせてはいたものの、いささかやつれた印象を与える。
4月11日、愛知県稲沢市の葬儀場で、東京・六本木のサパークラブ「A」の代表取締役を務めていたI氏(享年43)の通夜が執り行われ行われた。I氏の名前はメディアにたびたび登場した、清原最大の支援者である。I氏の友人が語る。
「西武時代の清原さんが店に遊びに来たことが始まりです。Iさんは野球に関心がなかったものの、地下格闘家としても活動していたため、プロレス好きな清原さんと意気投合しました。以来、飲み仲間となり、元妻の亜希さん(48)が清原のお目付け役をお願いしていたくらいでした」
現役引退後はより関係を深め、連日、朝まで六本木界隈で飲み明かす姿が目撃されていた。さらに逮捕前の15年秋頃には当時、薬物使用の噂が飛び交って干されていた清原が芸能活動を本格的に再開しようという際に、マネージャーとして車で送迎を行っていたほどだ。
「芸能界で再起をかけるにあたり、黒い噂が多かった清原の後ろ盾となっていたのが大手芸能事務所の幹部です。清原は『覚醒剤は使っていません』と誓い、I氏も『俺がいるかぎり使わせません』と言っていた。しかし、16年2月に覚醒剤取締法違反で逮捕されるや、顔に泥を塗られた幹部は大激怒して芸能界での後見人から降りてしまった。球界においても読売新聞・渡邉恒雄代表取締役主筆が『絶対に球界に戻すな』と怒り心頭で、清原は八方ふさがりとなった。横柄な性格も相まって、数多くの友人、支援者と絶縁することになったんです」(芸能事務所幹部)
そんな中、I氏は変わらず献身的に支え続けたという。I氏の生前、記者が取材を申し込むと、取材自体は拒否されたが、こう漏らしていた。
「面会に行った時、キヨさんが目を腫らし、頭を下げながら『力を貸してほしい』と頼んできたんですよ。実は僕も20代中盤、ホストをしていた頃、覚醒剤に手を染めてしまい、人生を台なしにしてしまった。そんな僕が依存から脱却できたのは、地元・名古屋の家族です。だから今度は、僕がサポートすればキヨさんも元に戻れると思うんです。見返り? ないですよ。男が頭を下げたんですから十分です」