関根氏はホストになる前はプロ野球選手だった。奄美諸島、沖永良部島出身の両親のもとに、7人兄姉弟妹の四男(5番目)として、昭和19年2月に大阪で生まれる。
「絵に描いたような、貧乏人の子だくさんだった」
生まれて間もなく、鹿児島に移住。小学生の時に大阪に戻り、低学年で鉄クズ拾い、高学年になると新聞配達、牛乳配達で家計を助けた。関根氏は言う。
「中学に入った時、長兄がこっそりとグローブをプレゼントしてくれた。当時、グローブは高嶺の花。文武両道に秀でた、優秀な兄貴だったね」
貧乏人一家の悲しさ。高校まで行ったのは、野球の特待生で入った関根氏1人だけだった。関根氏は兄の期待に応える。
入学した大阪高校は甲子園出場はないものの、強豪校である。1年からベンチ入り、2年からレギュラーで主将も務めた。卒業後、ノンプロを経て広島カープのスカウトの目に留まり、入団。63年のことだった。
「契約金は100万円ちょっとだった」(関根氏)
二軍では活躍したが、移籍したサンケイアトムズ(現ヤクルト)時代も含めて、一軍の打席に立つことはなかった。広島で同期だった、エースでスターの安仁屋宗八とはウマが合い、「ハチ」「セキ」と呼び合って毎晩飲んだ。「人生の中での一番の友達」と関根氏は振り返る。
やがて、プロ野球をクビになった関根氏に、思わぬ声がかかる。
「69年、アメリカの大富豪が、メジャーリーグに匹敵する第3のリーグ戦を世界規模で作ろうと呼びかけて『グローバルリーグ』が誕生したんです。5カ国6チームが参加して、ベネズエラなどでリーグ戦を開催するものでした」(関根氏)
日本からも元中日ドラゴンズのスラッガー・森徹を監督兼選手として、25名で参加。関根氏は森を生涯、「オヤジ」と呼んで慕っていた。チーム名は東京ドラゴンズ(ハポン・デ・トキオ)。関根氏は開幕戦から、1番・一塁に抜擢された。
森監督に見いだされた関根氏は、水を得た魚のごとく活躍。サイクル安打は記録するし、打撃も首位。だが、グローバルリーグは金銭トラブルが重なり、1年ももたず崩壊する。この詳細は阿部牧郎の著書「ドン・キホーテ軍団」(徳間書店/毎日新聞社)に譲るが、現地に取り残された彼らの帰国は「独立ぐれん隊」とも呼ばれた面々の脱走劇であり、映画のような光景だった。
日本に帰った関根氏は、新宿・成子坂でラーメン屋を開いていた兄(三男)の部屋に居候し、歌舞伎町のホストクラブ「ナイトロイヤル」に入店。ホスト人生が始まる。当時のホストの絶対条件は、ダンスができること。関根氏はダンスができないにもかかわらず、元プロ野球選手だということで、特別に採用してもらっていた。
「入店から3カ月はテーブルにつけず、その間、伊勢丹、三越などのデパートや、近所の喫茶店などで奥さんたちに名刺を配り続けました」(関根氏)
当時、ホストクラブは一般に認知されておらず、冷たい反応が多かったという。
笹川伸雄(ジャーナリスト)