「眠らない街」「東洋一の歓楽街」と称され、数々の映画の舞台にもなった新宿・歌舞伎町。酒、社交場、非合法ビジネス‥‥さまざまな顔、そして「ダークサイド」を持つ欲望の迷宮を構築したのは、数々のカリスマたちだった。まずは、ホストクラブ草創期に君臨した伝説の男の告白から──。
「おい、お前たちは芸がないんだから、下を脱いでホールを一周してこい」
ホールに声が響いた。ステージの上からマイクで声をかけたのは、「たけし軍団」を結成して間もない頃のビートたけし。命じられたのは、そのまんま東のほか、ダンカン、井手らっきょ、ラッシャー板前、ガダルカナル・タカ、松尾伴内、グレート義太夫など、軍団の面々だった。
「社長、どうですか。ホストに使えるヤツはいますか」
たけしの言葉に、軍団の下半身をしげしげと見つめる社長。
「う~ん、イマイチだな」
場内は爆笑、拍手喝采の大ウケだった。
今から34年前の新宿・歌舞伎町。ホストクラブ「夜の帝王」の店内でのワンシーンである。社長と呼ばれていたのが、この店のオーナーであり伝説のホスト、関根勇氏(73)だった。関根氏は、たけしのことをこう評する。
「義理堅く、面倒見がよく、そして機転が早く、人に対する思いやり、優しさを持ち合わせている」
関根氏が経営する「夜の帝王」の店内は100坪以上もあり、在籍ホストの数も常時100名を超えていた。演歌とジャズのツーバンドが入り、ホールではホストと女性客がダンスに興じる。華やかなクラブには、多くの芸能人が通った。ちなみに「夜の帝王」という店名の由来はまず、関根氏が梅宮辰夫に似ていること。そして当時、東映の人気作品に梅宮の「帝王」シリーズがあったことから名付けられた。
人生でただ1人、「アニキ」と呼んでいた菅原文太も、よく店に顔を出した。来るたびに関根氏のマネージャーに10万円を握らせて帰る、スマートな飲み方だったという。
「トラック野郎」シリーズ全盛期の頃。文太のディナーショーが赤坂であった時のことだ。関根氏は楽屋にヘネシーを差し入れ、一緒に飲んだ。
「今日はお酉さんだ。たまには(花園神社に)一緒に行くか」
文太は当時の極東桜成会・池田亮一会長(のちの極東真誠会二代目会長)を紹介したかったのだった。
「その夜、お酉さん本部のテント内で3人で飲んだ一斗樽の味が忘れられない」と関根氏は回想する。
文太が「アニキ」なら、「オジキ」と呼んでいたのが村田英雄。ある日、村田から電話がかかってきた。
「お前、ビートたけしと親しいらしいな。あの野郎、俺のことをバカにしたようなことを、テレビやラジオで言ってるそうじゃないか」
「オジキ、相手はお笑い芸人。歌謡界の御大と言われるオジキをネタにしてるだけじゃないですか」
その後、新宿コマ劇場で「村田英雄ショー」があった際、関根氏はたけしを村田の楽屋に案内した。出された座布団には座らず、直立でたけしは挨拶。
「村田先生、いつもテレビで失礼なこと言ってすみません」
「遠慮なく、どんどんやってくれ」
その時、たけしが差し入れた栄養ドリンクのテレビCMにその後、2人が一緒に出ていたのだった。
笹川伸雄(ジャーナリスト)