この4月で最古参マスターとして59年目を迎えた柴田氏だが、幼少期の苦い記憶をこう話す。
「小さい頃から吃音により『た行』がうまく言えず、詰まっていた。学校までの通学にはバスを利用していたけど、行く先の『虎ノ門』『田町』が言えなくて車掌さんから切符が買えず、発音できる次の『新橋』まで乗って、毎日2駅歩いていた」
高校時代に入部した演劇部で、教師から吃音克服のアドバイスを受けた。
「歌っているとセリフはつかえない。歌舞伎のセリフは歌うようなリズムがある。演劇が好きなら歌舞伎を勉強したらいい」
その教師の勧めで日本大学芸術学部演劇科に進学したことが、現在につながっている。
新宿三光町で現店舗と出会ったことにも若干の因縁があった。
戦後、焼け野原になった新宿には多くのマーケットができた。今の新宿駅の東側には関東尾津組による「新宿マーケット」が広がっていた。
その後、この闇市は屋台を中心とした飲み屋街に変貌し、「竜宮マート」と呼ばれるようになる。
それでも49年、連合国軍総司令部に出された「闇市撤廃」の指示により、闇市の各店舗は、代替地として与えられた新宿区三光町(現在の歌舞伎町1丁目と新宿5丁目の一部)の一帯に移転。すると、ほとんどの店が飲食店の名目で赤線(公認で売春が行われていた地域)まがいの“もぐり営業”を行うようになった。いわゆる青線である。
「この辺りは、私が学生の頃は午前2時を過ぎると学割があった。確か700円だったかな。泊まって朝食、味噌汁付きだった。ここから学校に通ったこともあったな」
三光町は柴田氏の青春の街でもあったのだ。
しかし、58年4月1日の売春防止法施行により、青線営業を行っていた店は全て廃業した。
「一夜にして青線の灯が消えたんだ」
今だからこそ折よくと言えるが、そこに柴田氏の失業が重なる。
役者をやろうと決めていたが食いブチがない。若くて勢いもあったから、スタンドバー「トップ」をオープンしたのだ。
「色街が急に普通のバーに変わった。最初は小指を立ててサインを送る、色街目的の客ばかり。新宿駅前で宣伝して、店まで連れてきても『女はいないのか』と言われ続けた」
その後、64年には東京オリンピックで日本中が大騒ぎとなる。外国人客が大勢来るから、花園街での風俗営業はできない。いわば、「第一期新宿クリーン作戦」の時期だった。
「当時は酒の売り上げが食事代より多いのはダメ。客と話してもダメ。12時過ぎの営業はダメ。全部、風俗営業に当たる。警察のきつい指導の連続だった。何度、警察に通ったことか」
酒場と役者の二足のワラジだったが、仲間も役者では食えない連中ばかり。彼らの食いブチも確保しようと、芝居仲間を巻き込んで店をリニューアルする。
劇団美術部による内装の刷新など、手作りでオープンさせ、店名も語呂で今の「突風」と命名する。
新聞に〈青線跡にBARがオープンした〉と報じられたこともあり、徐々にこの一帯にもバーが増え、現在の礎ができていく。
三光町の名前も78年に「歌舞伎町」と変わった。
笹川伸雄(ジャーナリスト)