WBCといえば忘れてならないのが、落合氏との因縁だ。09年の第2回大会で、中日だけが選手を派遣しなかったことで、当時の指揮官は批判の的にされた。
落合氏はついに、全真相を語ったのである。
「12球団には『これを出してくれ』という紙が来る。その時、よその11球団で誰が選ばれたかは知りません。『秘密は漏れないんですね』と念を押したうえで、選ばれた選手全員に(参加の意思を)聞きました」
落合氏が明かしたところによると、NPBから出場打診があったのは、岩瀬仁紀(37)、荒木雅博(34)、井端弘和(37)、森野将彦(34)浅尾拓也(27)、高橋聡文(29)、和田一浩(40)の7選手だったという。しかし、全員が「出たくない」と回答したという。
直前のケガや実力の不安定さが理由のようだが、中でも衝撃的だったのは当時の岩瀬の心情だ。落合氏はこう明かしたのである。
「行きませんよ。オリンピックで『クビくくって死ね』と言われて、『甲子園で投げたら殺す』なんて脅迫状まで来ちゃったんだから。時効だから言いますが、中日は警察に捜査も依頼しました」
08年の北京五輪に出場した岩瀬は、中日では不動のストッパーだったにもかかわらず、星野仙一監督( 65 )の“回途中”や“回またぎ”といった雑な起用法のせいか、4試合に登板して0勝3敗、防御率11・57とさんざんだった。結果、世間からも一部で戦犯扱いされたのである。
北京から帰国した岩瀬は川上憲伸(37)とともに、監督が常宿にしているホテルの38階を訪ね、試合後の監督を待っていたという。
当時の状況を再現するとこうだ。
落合「挨拶なんて明日でもいいだろ」
2人「早く監督に報告したかったんです」
落合氏はおべっかなんか使わなくていいと思ったが‥‥。
川上「岩瀬が『こっから飛び降りたら楽になる』って‥‥」
落合氏の部屋の隣は非常口だった。そして、落合氏が見ても岩瀬の表情は憔悴しきっていたという。
落合「だったら名古屋に帰っていいよ(一軍に帯同しないで休んでいい)」
岩瀬「いえ、1人でいたら何するかわからないので‥‥」
落合「じゃあ、一軍にいろ」
代表の苦しみを痛いほど味わった岩瀬がWBCを辞退するのも当然だった。そして、他の6人も同様の決断をしたという。
落合氏は続けた。
「『この7人は出ません』と伝えたら、漏れるはずがないのに、(NPBの)事務局長と、名前は言いませんが当時の“読売”の代表によって『中日は不参加』と記事になった」
落合氏が怒りを覚えた2人とは、NPB現会長の長谷川一雄氏(63)と、現在は巨人と決別した清武英利氏(61)で間違いなかろう。