テリー そもそも、村野さんはどうして役者になろうと思ったんですか?
村野 本当は商社マンになろうと思っていたんですよ。それで早稲田大学商学部に入ったんです。
テリー すごいじゃないですか!
村野 でも、授業が貸方借方、原価計算、経済原論とか全然おもしろくないんですよ。それで1年の夏休みには商社マンはあきらめちゃった。
テリー 見切りがえらく早いなァ(笑)
村野 で、夏休みにブラブラしていたら、すぐ上の姉に、「お前は勉強なんて向いてないんだから、自分のやりたいことを見つけなきゃダメだよ」って言われて、いろいろ考えたんですよ。そしたら、中学の時に演劇部を手伝ったことを思い出したものですから、大学にあった「劇団こだま」に入ったんです
テリー それ、田中真紀子さんとかもいたところですよね?
村野 長塚京三もいました。1期上には久米宏さんもいたらしいんですね。
テリー すごいな、まさにエリート集団だ。
村野 それでもう芝居がすっかり楽しくなってしまいまして、「もう、このままいっちゃおう」と、大学を卒業後に「文学座」の研究所に行ったんです。
テリー あの頃の文学座って人気もあったから、なかなか簡単に入れなかったんじゃないですか。
村野 って言いますよね。僕もあとで聞いてみたら、「(その頃の劇団に)お前みたいな、すっとぼけたタイプのヤツがいなかったから」って言われましたから(笑)。芝居とか関係なかったみたいですよ。
テリー でも、それだって村野さんの才能じゃないですか。そのあと、すぐテレビに出られた?
村野 研究所の生徒として1年間やったあとに、NHKの芸術祭参加作品で「走れ玩具」っていうドラマがありまして、そのオーディションを受けろって言われて行ったら、主役に抜擢されました。そのあと「この青春」というベトナム戦争をテーマにした映画で、真面目な夜間高校生の役を演じたら、それを藤田敏八監督が見てくれて、「八月の濡れた砂」という映画に僕を抜擢してくれたんです。
テリー 名作ですよね、僕も大好きです。
村野 その映画の公開がちょうど71年の8月だったんですが、それを「飛び出せ!青春」のプロデューサーが見てくれて、翌年2月から「飛び出せ──」が始まるんです。
テリー トントン拍子で仕事がつながっていったんですね。人気も全国区になると、生活は変わりました?
村野 よく覚えてるのは、ある時、日本テレビの広報部に呼ばれて向かっていたら、高校生の集団に見つかって囲まれたことがありましてね。路上でサインしてるうちにすごい人数になっちゃって、やって来たお巡りさんに「何やってるんだ、キミは!」って怒られたりしてね。
テリー そりゃあ当時だったら、そんな感じでしょう。相当女性にもモテたんじゃないですか?
村野 その時、僕はもう結婚していましたからね。で、忘れもしないんですけど「飛び出せ│」のクランクインは予告編の撮影だったんですが、その日に長女が女房から飛び出してきたというね(笑)。
テリー アハハハハ、よくできた話じゃないですか。