「アメリカ興行界の顔役とサシで話をつけた!」
猪木の懐刀、元新日本プロレス専務取締役営業本部長・新間寿氏(77)。新間氏と猪木の出会いは、まだ猪木が世に出る前のことだった。
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「強くなりたいという願望があって、力道山先生の日本プロレスが主宰していた道場でボディビルを練習していたんだ。そこで、豊さんこと豊登(元力士、日本プロレス草創期の名レスラー。98年没)さんに、一人の若手レスラーを紹介された。『この背中を見てくれ。将来、世界チャンピオンになる男だ』ってね。それが猪木さんだった」
やがて新間氏は、66年、豊登が設立した新団体・東京プロレスを軌道に乗せるため、父とともに身を投じる。プロレスラーとしてではなく、その営業能力を請われてのことである。
「豊さんに呼ばれて宿に行くと、金ならあるぞ、と札束の山を見せられた(笑)。しかし東京プロレスは、日本プロレスに比べていかんせんスターがいない。豊さんと猪木さんの2枚看板ではややキツく、やがて東京プロレスが瓦解の道をたどった。しばらくはプロレス界から遠ざかっていたところ、再び日本プロレスと袂を分かった猪木さん(新日創設)から誘いがあり、二つ返事で引き受けたよ。正直このまま終わりたくないという気持ちが強かったからね」
その頃、猪木は押しも押されもせぬスターになっていた。そのネームバリューと新間氏の献身的かつ、独創的な営業努力で新日は馬場の全日本と二分する人気を得る。その中で猪木、そして軍師・新間氏が仕掛けたのが、ボクシング界のスーパースター、モハメッド・アリとの異種格闘技戦だった。
「みんなそんなものが実現するハズはないと思っていたでしょう。でも我々は、数々の困難を乗り越えて試合までこぎつけた。それより何より困ったのは、ルールを巡って紛糾し、試合後アリ側に巨額の賠償請求訴訟を起こされてしまったこと。この処理には心血を注いだよ。こちらも訴訟を起こしたがラチが明かない。それでアメリカに乗り込み、プロモーターのハーバード・モハメッドと直談判を試みた。最初はかたくなな態度でしたが、『あなたとサシで話したい』『私はあなたの心に語りかけている』と話すと、感銘を受けてくれてね。その場で告訴を取り下げてくれた」
ハーバード・モハメッドといえば、アリのボスにしてアメリカ興行界の大顔役だ。その彼とサシで話をつけた新間氏に、意外なプレゼントが待っていた。
「いわば手打ちが済んだところで、ハーバードが受話器を差し出した。そして話せ、と。すると聞き覚えのある声で、『セイ、ハロー』‥‥アリでした。なぜか涙が込み上げてきてね」
その後、新間氏は猪木が政界に転身し、スポーツ平和党の党首となると、幹事長として辣腕を振るった。しかしやがて袂を分かつ時が来る。新間氏いわく、
「レスラー・アントニオ猪木は大好きだし、彼やプロレスの悪口は言ったことはない。が、猪木寛至個人は別の人格だと思っている」
それでも仲介者を経て02年、電撃的な和解を果たしたという。そして現在‥‥。
「猪木さんとはたまに会いますよ。それと連動するワケではないですが、最近、石原慎太郎さんが80にして立ったことに感銘を受けてね。自分もまだまだやるぞと、沸々と湧いてくるものがある」
猪木、新間の名コンビは、平成の世でも旋風を巻き起こすか?