14の政党がせめぎ合う混迷を、自民党の小泉進次郎は「まるでバトルロワイアル、誰が生き残るか」と指摘した。かつての首相を父に持つ者たる表現だが、同じように映画監督として〈一子相伝〉を望んだ男がいる。父・深作欣二と息子・健太の“襲名式”は、命を削っての戦いとなった─
感動した「仁義なき戦い」
〈あした世界が滅びるとしても、きょう私は林檎の樹を植える〉
晩年の深作欣二が愛したコンスタン・ゲオルギウ(ルーマニアの作家)の教えである。人は絶望の淵にあっても、淡々と何かをやらなければならない。深作にとっては、全身を病魔が貫いても「映画」を撮らずにはいられなかった‥‥。
〈中学生42人皆殺し!〉
深作は、息子・健太の机にあった本のオビに目をとめた。高見広春原作の「バトル・ロワイアル」のことだ。深作は前年に5年ぶりの新作「おもちゃ」(99年/ 東映)を撮ったが、バイオレンスの名手にしては、1人の死者も出ないという珍しい仕上がりだった。その反動から「物議をかもしそうな題材」に興味を持ったようだと健太は言う。
「原作そのままに『架空国家の近未来SF』だったらやっていない。そこに当時の世相を絡め『子供の側からのカウンターパンチ』を食らわせられるなら、オヤジはやってみたいと思ったんです。そのためには架空国家ではなく、日本を舞台にしたかった」
深作は15歳で終戦を迎え、戦後に流行した「アプレゲール(無軌道な若者)」にくくられている。健太もまた「新人類」と眉をひそめられた世代であり、中学生のクラス42人が最後の1人になるまで殺し合う「バトル・ロワイアル」の世界観にはテーマを見出せる。こうして父親の深作が監督、健太がプロデュースと脚本を担当した「バトル・ロワイアル」(00年/東映)が動き出していく─。
健太は、初めて父親の仕事を意識した日を思い起こした。5歳の健太を父は東映・京都撮影所に連れて行った。深作を慕う役者たちが「チョンマゲにスクーター」で走り回り、健太に声をかけてくる。
「ケン坊、これ終わったら次は宇宙人の役やでえ」
子供心に健太は、何とおもしろい世界だろうかと思った。こんな世界で監督と呼ばれている父親を、尊敬の目で見るようになった。以来、幼い頃から遊んでくれた千葉真一や真田広之の映画を観ると、ふだんの姿と役柄の違いを「裏側から楽しむ」ようになった。
健太が生まれた日、深作は出世作である「仁義なき戦い」(73年/東映)の撮影に追われていた。後年、レンタルビデオで同作を観た健太は、衝撃を受けた。
「中学生になって、グレかけていた時期だったんですよ。ところがオヤジは、とっくに『グレた映画』を作っていた。川谷拓三さんなど“チンピラの目線”で撮っていることに感動しました。日本映画って、どこかに『チンピラとテロリストの文脈』が続いていることを確信しました」
同じ頃、母親である女優・中原早苗と、父親の監督作「火宅の人」(86年/東映)を劇場で観た。
「とんでもない映画だ!」
母親と息子は、同じような感想を言い合った。深作は松坂慶子との仲をウワサされて「火宅」の印象があり、劇中には重い病気を抱えた息子まで登場する。実は健太も2歳でひざを痛め、運動がしづらい体になっていたが、こうした要素も「映画」としてすべて昇華している。
やがて健太が父と同じように映画の世界の門をくぐったのは、避けられぬ必然であった。