「日馬富士暴行事件」で表面化した「横綱白鵬vs貴乃花親方」の対立の構図は、モンゴルと日本の文化の違いもあり、相当わかりにくいものになってきた。『WiLL 月刊ウィル』(ワック)の2月号に、東洋史家の宮脇淳子さんが「モンゴル力士はなぜ嫌われるのか」というタイトルで興味深い文章を書かれている。
〈貴乃花親方は「モンゴル互助会」が大嫌いなそうだ。しかし、モンゴルにはもともと、仲間をつくってつるむというような習慣はない。モンゴル人は日本人にくらべたらはるかに個人主義であり、実力主義である。貴乃花の好きな「ガチンコ」は、本来モンゴル人の特質だったのではないかと思う。(略)モンゴル力士の互助会が存在するとしたら、それは(略)閉鎖的な日本社会に対抗するため、やむを得ずまとまる必要があったからではないか〉
なるほど。かつて「大関互助会」が存在したように、助け合いの文化は、本来日本のものなのだ。
かつては千秋楽を7勝7敗で迎えた力士は、必ず勝つもの(勝たせてもらえるもの)というのが常識で、観客も、それを承知で土俵を見たものだった。が、いつの頃からか「それはオカシイ」という声が高まり、「八百長は存在しない」というのが建前の相撲協会も、「無気力相撲」を排除する姿勢を打ち出した。
アメリカの経済学者までが、「ヤバイ経済学」という本のなかで、7勝7敗力士の勝率が高すぎるなどと、わかりきった指摘を、さも鬼の首を取ったかのように書いて見せた。まったく野暮な話である。
拵え相撲を認めるわけではなく、7勝7敗の力士が千秋楽に勝ち越す相撲は、他のどんなガチンコ相撲よりも、観客の誰もがハラハラドキドキ興奮する内容にするべきだ。プロならそのくらいのことはできるはず。それをやってこそプロのはず‥‥などと書くと、また野暮な御仁から、「オマエは八百長を認めるのか!?」などと叱られそうだ。
しかし年間6場所、何度も同じ相手と対戦する大相撲は、公正なスポーツの試合方式とは言えず、互助会(日本的助け合い組織)を生むのを容認しているシステムとも言える。
そもそも頭に丁髷や大銀杏を結って闘うだけでも、近代スポーツと呼ぶことはできないが、そんななかで「ガチンコ相撲」を貫く力士が少数ながら常に現れるのも大相撲の魅力と言える。
古くは69連勝を記録した双葉山から、栃錦、若乃花、柏戸、佐田の山、そして現在の稀勢の里、高安、貴ノ岩‥‥等々ガチンコ力士は常に人気を集め、なかでも現役時代の貴乃花はその筆頭として大人気を博した。
が、今は大相撲の「改革派親方」として少々理解し難い立場に立っている。
相撲は「稽古」(古きを稽える)が大事で過去の伝統の継承が基本。改革よりも保守が主流。ところが貴乃花親方は、あるテレビのインタビューで、過去の因習を引きずるものの一つとして「服装が現代の若者に合わない」と発言したのだ。
つまり紋付き袴や浴衣を洋服やジャージに変えたいらしい。が、親方衆も和服を着るべきと思う小生には、貴乃花親方の「改革」は日本の伝統文化の破壊としか映らない(後援者の前で相撲甚句ではなく裕次郎の歌を披露するのも、レイバンのサングラス姿も、大相撲関係者にはあまり相応しいものとは思えない)。
貴乃花親方と白鵬(モンゴル力士)の「ガチンコvs互助会」の対立は、「改革派vs保守派」でもあり、ならばモンゴル力士たちのほうが大相撲の伝統を引き継いでいると言えるのか?
互助会の「やりすぎ」は非難されて是正されるべきだが、「改革」も手放しで賛成はできない。このネジレこそ今回の事件の大問題と言えそうだ。
玉木正之