今大会に出場した36校のうち、春夏両方の甲子園でともに優勝したことがある高校はわずか5校しかない。大会5日目に登場する高知はその数少ないうちの1チームである。
先に優勝したのは夏の選手権で1964年第46回大会。春の選抜制覇はそれから11年後の1975年第47回大会だった。この大会、開幕前の評価で2強に挙げられていたのが東海大相模(神奈川)とこの高知であった。東海大相模は原辰徳(元・読売)と津末英明(元・日本ハムなど)がともに2年生ながら3・4番に座り、その強打に期待がかかっていた。対する高知には170センチ未満の小柄な体格ながら大会屈指のスラッガーと評された杉村繁(元・ヤクルト)の打棒に注目が集まっていた。
その高知は左腕エースの山岡利則(近大ー大昭和製紙)も好投手との前評価が高く、1回戦で熊本工戦を5‐4、2回戦の福井商戦を2‐1、準決勝の報徳学園(兵庫)戦を3‐2とすべて1点差で競り勝って決勝戦進出を決めた。
そして迎えた決勝戦。相手は大会前に誰もが期待した、東海大相模との決戦となったのである。しかも、試合展開は初回から壮絶な打ち合いとなった。1回裏に高知はランナー3塁から暴投で失点。さらに原に左越え本塁打を浴びるなど一気に3点を奪われてしまったのだ。だが、高知は2回表にすかさず反撃。3四球でもらった無死満塁から右犠飛で1点を返した。その裏に長短打を浴びて1点を追加されたが、3回表にも杉村の右中間三塁打などで2点を返し1点差に迫る。さらに高知は5回表にランナーを三塁に置いてまたも杉村がセンター前に同点タイムリー。7回表には一、三塁のチャンスから一塁ランナーが二塁へ盗塁。これが東海大相模の捕手の悪送球を誘ってついに勝ち越しに成功したのである。
しかし、東海大相模も粘る。8回裏に原が右中間を抜く三塁打を放つと5番・佐藤勉の右中間への二塁打で同点に。そして試合はこのまま延長戦へ突入したのである。
その12回裏に高知はあわやサヨナラ負けの場面を迎える。2死一、二塁から4番・津末に右前打を浴びたのだ。これをライトからの好返球でみごとに刺し、ピンチを脱したのだった。この最大の死地から脱したことが13回表の猛攻につながった。ノーアウト三塁のチャンスから杉村が左中間を割る三塁打で勝ち越し。さらに無死一、三塁からスクイズ、左前適時打、右前打、四球、左中間三塁打などを絡めて一気に5得点で東海大相模を突き放した。その裏、エース・山岡が東海大相模の攻撃を無得点に抑えて10‐5。この瞬間、高知高校のみならず、高知県勢にとっても初の選抜優勝が達成されたのである。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=