朝(あした)には紅顔ありて、夕(ゆうべ)には白骨となれる身なり(蓮如)
浄土真宗の葬儀などで読まれる「御文章」の中の「白骨章」の一節。身内の葬儀などで僧侶からこのお経を聞いたことがある人もいるだろう。
「われや先、人や先、今日ともしらず、明日とも知らず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。されば朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり。すでに無常の風来たりぬれば、すなわちふたつのまなこたちまちに閉ぢ、ひとつの息ながくたえぬれば、紅顔むなしく変じて‥‥」
と続く長い文章の一節だ。人間いつ死ぬか、朝には元気でも夕方には白骨になっているか、先のことはわからないという無常観が突きつけられる。人が逃れることのできない死を意識することで、この刹那を生きようという気持ちになる。死を思うことで生きることができる名文だ。
最後に、決して名僧というものではないが、自分の人生に正直に生きようと行乞の旅の中で模索し続けた放浪の俳人・種田山頭火の俳句を紹介したい。
どうしようもない私が歩いている(種田山頭火)
自由律俳句の天才は、その著書「行乞記」に、
〈所詮、乞食坊主以外の何物でもない私だった、愚かな旅人として一生流転せずにはゐられない私だった、浮草のやうに、あの岸からこの岸へ、みじめなやすらかさを享楽してゐる私をあはれみ且つよろこぶ〉
と記している。解釈はひとりひとりにお任せしたい。