人在世間愛欲之中 独生独死独去来 身自当之 無有代者(釈迦)
「『人、世間の愛欲の中にありて、ひとり生まれ、ひとり死し、ひとり去り、ひとり来る。身みずからこれを受け、代わる者あることなし』と読みます。人というのは一人で生まれ、またたった一人で死に去っていかなければならない存在。我が子が頭が痛いといっても、母親がその痛みを代わってやることはできない。自分の人生は結局、自分で引き受けていくしかないのです。私が盲腸になったとして、他人が入院して手術を受けることはできない。それはヤクザ社会でも因縁をつける時に『わしがイモ食うて、あんさん屁ぇこきまんのか?』なんて詭弁で相手を追い込んでいきますが、『独生独死』、そういう覚悟があって初めて人とつきあったり、笑ったり泣いたりできる」
自灯明、法灯明──自分自身を拠り所とし、他の者を頼ってはいけない。法を拠り所とし、他の者を頼ってはいけない(釈迦)
というのは、釈迦最後の説法とされる言葉。
「悟りは人から教わって得るものではなく、自分と法(仏法)を頼りにみずから至るものだという教えです」
向谷氏はこの法を「ヤクザの法=任侠」に当てはめる。ひとたび抗争が起これば否応なく生死のはざまに身を置く極道として、自分と自分が信じる任侠道を生きる指標にしたという人物に、かつて出会ったことがあるという。
「仏教の『諸行無常』という考え方は、全ては移りゆき常に一定ではないということですが、現状を全て受け入れていくしかないということです。人間の細胞にしても考えにしても、全て日々刻々変わっていく。裏切られることもあるだろうし、裏切ることもあるでしょう。さらに『因縁生起(いんねんせいき)』といいますが、物事は縁によるということで、それもまた受け入れるしかない。私たちはなかなかそれを受け入れられないから、いろいろな不平不満が出る」
例えば、朝、家を出る時に妻と喧嘩して頭にきたとして、それで財布を持って出るのを忘れたとする。
「するとカミさんがよけいなことを言ったからオレは財布をうっかり忘れたんじゃないかと思いたがるけれども、そもそもなんで喧嘩になったのか。すると昨夜も遊んで夜遅くに帰ってきたことだったり、さらになぜ遅くなったのかといえば仕事が忙しかったから。ではなんで忙しかったのか、なんでその会社に入ったのか、ずーっと遡って考えてみると、生まれた時にまで遡ってしまうわけです。いろいろな因縁や因果が網の目のように重なって、今朝女房と喧嘩して財布を忘れたことにつながってくる。私たちは一つの原因から考える『単因論』で見ていくから、女房が悪い、社長が悪い、部下が悪いというふうになるんです。ところがそこに至るには、この世に生を受けたところまで遡る因縁がある。一つの要因だけを追及しても無意味なんです」