夏の高校野球選手権の第1回大会が最初に開催された1915年から100回大会を迎える今年まで予選皆勤校はわずか15校。その中に鳥取県と島根県からそれぞれ2校残っていることはすでに紹介済みだが、なぜ野球強豪県でもないこの両県で計4校も残っているのだろうか。
その理由は、山陰地区では明治時代の末期からすでに山陰大会が開催されるほど野球が盛り上がっていたからだとか。当然、当時から地元の中等学校野球への関心度は高かった。第1回大会の代表校枠は全国で10地区(東北、関東、東海、京津、兵庫、関西、山陰、山陽、四国、九州)。関東、関西、九州でさえ1代表枠だったのに“鳥取と島根の2県で1代表”というのもこの盛んだった野球熱によるところが大きかったと思われる。
そして、その第1回大会の鳥取と島根代表による“山陰地区代表決定戦”にはこんな逸話が残っている。
参加6校の鳥取県予選を制した鳥取中(現・鳥取西)と参加2校の島根県予選を制した杵築中(現・大社)との間で山陰代表が争われることになったが、実はその2年前の1913年の山陰大会で起きた、とある事件が問題となっていた。それは地元開催側だった鳥取県の米子中(現・米子東)の応援団が島根県の松江中(現・松江北)の応援団に木刀などで暴行を働いた‥‥というもの。当然、松江中は途中で試合を放棄したのだが、この一件で両県の関係が悪化。翌1914年の山陰大会が中止される事態にまで発展した。そしてそれは第1回大会の予選にも悪影響を及ぼしてしまったのである。
それはつまり、どちらの県でも試合が出来ないということ。そういう理由で大会が開催される直前になっても山陰代表決定戦を行うことができなかった。そんな状況で関係者が思いついた苦肉の策が、「それなら豊中球場でやろう」という妙案。実は第1回大会が開催された球場は現在の甲子園球場ではなくて、大阪府豊中市にある豊中球場がその晴れの舞台だった。今で言うと、要は地方予選決勝を甲子園で行うのと同じである。
試合の結果は2‐2の同点で迎えた最終回に鳥取中が3点を奪って5‐2で勝利。みごと山陰代表となった。一方で杵築中には実は不運な出来事が。試合前に下痢をした選手が続出したことが原因で力を発揮できなかったのだ。わざわざ大阪まで来て試合までしたのに、その3日後に始まる本大会に参加することなく島根に帰るハメになってしまった。
(高校野球評論家・上杉純也)