これまで夏の選手権で連覇を達成したことのあるチームはわずかに6校しかない。その第1号が1921年~1922年の和歌山中(現・桐蔭)である。この和歌山中は夏の選手権の第1回大会から第14回大会まで14年連続出場を果たしており、甲子園の創世記において“最強”とも謳われていた。その中でひと際輝いたのが好投手・北島好次と主砲・井口新次郎(早稲田大ー大阪毎日新聞社)で連覇した第7回、第8回大会である。
特に第7回大会での和歌山中の打棒は凄かった。県予選から海草中(現・向陽)を32‐0、和歌山工を39‐0、奈良県代表と争う紀和大会でも郡山中(現・郡山)を11‐0と圧倒して本大会進出を決めるとそこでも初戦から神戸一中(現・神戸=兵庫)を20‐0、釜山商(朝鮮)を21‐1、豊国中(現・豊国学園=福岡)を18‐2と圧倒的な大差で下して決勝戦へと進出。その決勝戦でも京都一商(現・西京)を16‐4という大量得点差をつけてみごと初優勝を飾ったのである。用具もまだ粗悪で飛ばないボールが使用されていた投手優位の時代に4試合で本塁打3本、三塁打5本、二塁打11本を記録し、チーム打率も3割5分8厘をマークした。このチーム打率は50年の第32回大会で鳴門(徳島)に塗り替えられるまで大会記録でもあったのだ。それでも4試合で奪った総得点75は今でも大会史上チーム最多得点として燦然と輝いている。
翌22年の第8回大会。前年はショートを守りチームを優勝へと導いた井口がエースとして帰って来た。前年のような打力のチームではなかったが、この井口が投打に活躍。早稲田実(東京)を8‐0、立命館中(現・立命館=京都)を4‐1、松本商(現・松商学園=長野)を2‐1で下して2年連続決勝戦の舞台へと駒を進めた。その相手は名サウスポー・浜崎真二(元・阪急)=日本プロ野球史上最高齢公式戦出場記録を2014年に元・中日の山本昌に破られるまで64年間保持していた=を擁する神戸商(兵庫)。
試合はこの浜崎と井口の投手戦が期待されたが、1回裏に井口が立ち上がりを攻められ、いきなり3失点を喫してしまう。4回裏にも1点を追加され0‐4とリードを許した和歌山中は7回まで無得点。しかし、敗色濃厚だった8回表。4連投の浜崎がバテてきたのだ。そこを突いた和歌山中打線は阪井敏雄の二塁打をきっかけに猛打が爆発。一挙に5得点を挙げ、大逆転に成功したのである。続く9回表にも3点を追加し、勝利を決定づけた。結局、8‐4で勝利し、ここに夏の大会史上初の連覇が達成されたのであった。のちに井口は春の選抜の選考委員などを歴任し、高校野球発展に寄与。野球殿堂入りを果たしている。
和歌山中は戦後の学制改革で桐蔭とその校名を変えたが、夏の大会第1回から予選皆勤を続ける15校の一つでもある。晴れの開会式にはその栄誉を讃えてこの15校の主将も入場行進に参加することが決まっている。100回分の歴史と伝統、その重みを感じながらの行進となるに違いない。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=