関東地方1都6県のうち、春の選手権での全国制覇はあった(大宮工)=1968年=が、夏の選手権制覇が最も遅かったのは埼玉県だ。昨年、第99回大会で花咲徳栄が悲願の埼玉県勢初優勝したのである。あれから早や1年、いよいよ第100回大会も決勝戦を迎えることとなった。
では、関東1都6県のうち、春夏通じて、全国制覇する高校を輩出するのが最も遅かった県はどこか。群馬県である。春夏通じて群馬県勢の甲子園初優勝は、ミレニアム前年の1999年第81回夏の選手権大会のことだった。
この年、群馬県代表として夏の甲子園に乗り込んだのが桐生第一である。チームのエースは大会NO.1左腕と言われた正田樹(元・北海道日本ハムなど)だったが、チームとしての評価はさほど高くはなかった。しかもこの年は正田以外にも比叡山(滋賀)の村西哲幸(元・横浜)、仙台育英(宮城)の眞山龍(元・西武)、静岡の高木康成(元・オリックスなど)らのちにプロ入りする好投手が顔をそろえていた。しかも、抽選のいたずらで正田擁する桐生第一はこの好投手たちばかりと軒並み対戦することとなるのである。
その初戦。正田にとってはいきなりの圧巻の舞台がやってくる。村西擁する比叡山との対戦だった。正田は、右打者の内角へ左腕特有のクロスする速球をズバスバ決め、相手の4番・細見直樹(元・ヤクルト)を完全に抑え込むなど、6回まで9奪三振。7回2死までパーフェクトピッチングを続けていた。21人目の打者に初安打を喫したものの、打線が8回裏に奪った2点を守り切っての2‐0。結局、毎回の12奪三振、1安打無四球完封で初戦を突破したのだった。
続く2回戦は仙台育英と対戦。桐生第一打線は相手エースの眞山龍を4回表に攻略。一挙6点を奪うなど主導権を握り、投げては正田が8回1失点と好投。最後は2番手の2年生右腕・一場靖弘(元・東北楽天など)が締め、11‐2で大勝した。3回戦は正田と並ぶこの大会注目の左腕と言われた高木康成の静岡との一戦。正田は高木の2安打を筆頭に、静岡打線に10安打を浴びるなど苦しい投球となったが、粘りの投球で完投。打線も正田を援護し、1‐2で迎えた7回裏に一挙3点を挙げるなど、4‐3で逆転勝ちを収めたのだった。
準々決勝は優勝候補の一角・桐蔭学園(神奈川)と対戦。試合は0‐0で迎えた6回裏に桐生第一が3点、7回裏に1点を取り、4‐0とリード。投げては正田が7回2死まで無安打ピッチングを披露。結局、2安打7奪三振。4‐0の完封劇で強敵を下したのだった。
続く準決勝の樟南(鹿児島)戦も投手戦となる。正田は7安打を浴びたが要所を締めるピッチングを展開。打線も0‐0で迎えた9回表に相手エースの上野弘文(元・広島東洋)を攻略し、2点を先取。その裏を正田が0で抑えて2試合連続完封劇。こうして桐生第一は県勢初の夏の甲子園決勝戦へと挑むこととなったのである。
迎えた決勝戦。岡山理大附との一戦では、立ち上がりに正田がつかまり先制点を奪われたが、打線が14安打14得点と大爆発。正田も初回の1失点だけで完投勝ちし、ここに群馬県勢初の全国制覇が成し遂げられたのである。1925年第11回大会に県勢が夏の甲子園初出場(前橋中)を果たしてから実に74年越しの悲願達成であった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=