大阪桐蔭(大阪)を相手に13対2。優勝候補筆頭のスター軍団の前についに力尽き敗れた金足農(秋田)は、秋田県勢としては103年ぶりの決勝進出であり、優勝すれば東北勢初となることもあり、8月21日の夏の甲子園第100回大会を大いに盛り上げた存在となった。同時に選手が全員地元出身の「公立高校」だったことも話題になった。
そして、勝利した大阪桐蔭は史上初である2度目の「春夏連覇」を果たしたわけだが、昨年まで甲子園史上でこの「春夏連覇」を達成したチームは大阪桐蔭も含め7校。その中で唯一、公立高校でこの偉業を成し遂げた高校がある。それが1979年第61回大会での箕島(和歌山)だ。
名将・尾藤公監督が率いたこの年の箕島は春の選抜も優勝候補通りの実力を発揮して、みごと選抜制覇。夏の県予選でもエース・石井毅(現在は木村竹志。元・西武)が失点わずかに1。攻守にもまったくスキがなく、経験と実績とも大会No.1。連覇への期待が高まっていた。
その初戦でまず札幌商(現・北海学園札幌=南北海道)に7-3で快勝。続く3回戦で“甲子園史上最高の名勝負”と謳われる星稜(石川)との激戦を繰り広げることとなる。
この試合で星稜が善戦した最大の要因は、エースの堅田外司昭(松下電器)が箕島の若干苦手とする左腕で、特に直球とカーブのコンビネーションが抜群だったこと。箕島の左の主砲・北野敏史(松下電器)を無安打に抑えるなど、箕島打線に的を絞らせなかった。
試合は4回表裏に1点ずつを取り合ったまま、膠着状態に陥り、延長戦へと突入。午後6時が過ぎ、6基の照明灯が点灯。そして迎えた12回表。箕島は1死一、二塁のピンチを招く。次打者を平凡な二ゴロに仕留めるが、何と主将で名手の上野山善久(同大ー電電近畿)が後逸。実は上野山はおたふく風邪が完治していない状態でプレーしていた。その裏、箕島の攻撃も2死無走者。だが、ここで1番・嶋田宗彦(元・阪神)がベンチに向かってこう宣言する。「監督、ホームランを打ってきます!」。そしてその2球目。甘く入ったカーブを左翼ラッキーゾーンへと打ち込んだ。手痛い失策を犯した主将と絶体絶命に陥っていたチームを救う起死回生の同点本塁打が飛び出したのだ。この奇跡の一発で試合の流れは箕島へと傾いた。14回裏に1死三塁という絶好のサヨナラの場面を作ったのだ。しかしここで星稜の三塁手・若狭徹(元・中日)が“隠し球”という奇策を敢行。三塁走者の森川康弘(三菱自動車水島)をアウトにし、ピンチを脱した。これで流れは星稜へ。
すると16回表2死一、三塁から主将の山下靖が右翼線へ勝ち越しの適時打。3たびリードを奪う。その裏、箕島の攻撃は簡単に2死。ここで打席に入ったのが前回、隠し球でアウトになっていた6番・森川だった。失敗を取り返そうと打つ気満々の森川は初球の高めに手を出すが、力のない打球が一塁ファールゾーンへ。万事休すと思われたが、次の瞬間、星稜の加藤直樹が転倒し、命拾いした。実はこの年からフェンス側に敷かれた人工芝の切れ目に足が引っかかったのだ。そしてふたたび奇跡が起きる。堅田の投じた5球目の直球をフルスイングすると、打球はカクテル光線きらめくなか、左翼スタンドへと消えていったのである。またも2死無走者からの同点弾。こうして2度の奇跡を起こした箕島は18回表の2死満塁のピンチも防ぎ、その裏の攻撃へ。この回箕島が無得点だと翌日再試合となる寸前の1死一、二塁から5番・上野敬三(元・読売)が左前適時打を放ち、劇的なサヨナラ勝ちを収めたのだった。なお、NHKはこの試合を夜6時から総合⇒教育テレビとリレー中継したが、その視聴率は29.4%。現在でもNHK教育テレビの歴代最高記録となっている。
壮絶な死闘を制した箕島はこの後、城西(東東京)に4-1、横浜商(神奈川)に3-2、そして決勝戦でも池田(徳島)に4-3と逆転勝ちし、史上3校目となる春夏連覇を達成する。優勝投手となった箕島のエース・石井は甲子園春夏通算14勝1敗を記録。これはPL学園(大阪)の桑田真澄(元・読売など)に抜かれるまで戦後の最多勝記録であった。
(高校野球評論家・上杉純也)=敬称略=