「スター誕生!」のチーフプロデューサーだった池田文雄は、10年前に世を去っている。84年には社内で昇進が決まりながら、現場を離れることに抵抗し、退社して個人オフィスを立ち上げたほど気骨あふれるテレビマンであった。
二人三脚で池田を支えた美佐子夫人は、今なお年に1度は「ママを囲む会」が開かれるほど、番組の出身者にとっては名物ママである。作詞家として城みちるの「イルカに乗った少年」を手がけるなど、公私にわたって池田をフォローした。
「あの番組が始まる前は、とにかくスポンサーを探すのに必死。主人は朝から広告代理店や企業をかけずり回っていたのね」
日曜の午前中の番組とあって、ゴールデン帯ほど予算が潤沢ではない。オーディション番組の宿命で、新人歌手が誕生するまでのタイムラグもある。
ある日、司会の萩本欽一がスタッフの前でこう言った。
「池田さんは自分のお金を番組につぎ込んでいるらしいよ」
それは事実だった。池田は新宿コマ劇場や浅草国際劇場で歌謡曲の公演が行われると、日テレには内緒で「演出のアルバイト」を担当し、そこで得た金を番組に投入する。きっかけは「スタ誕」の地方ロケにゲストで参加した女性歌手の「弁当がまずい」の一言だったという。
やがて第1号で森昌子がデビューし、さらに淳子や百恵が続くと、池田は目を血走らせて売り出しに奔走する。当時の池田の口ぐせは「子供たちより昌子が大事」だった。
「ウチにも彼女たちと同じ年代の子供がいたけど、息子はキャッチボールもしてもらってない。娘は誕生日も一緒に過ごしたことがない。父親に『昌子ちゃんが大事なんでしょ!』と反抗することもありました。それでも、番組が評判になってくると『パパが作っている』と自慢に思うようになってたみたいね」
淳子を発掘した伝説の秋田予選は、残念ながら池田は参加できず、それでもスタッフからの報告をうれしそうに美佐子に伝えた。
「歌はそんなにうまくないけど、帽子をかぶったすごくかわいい子が秋田にいるんだよ!」
中3トリオの誕生で、「スタ誕」は高視聴率番組に成長した。また全国からの応募ハガキも膨大な数になり、予選を受けるだけでも超難関となった。
こうした状況にも池田は慢心することなく、若いディレクターには厳しく言い続けた。
「デビューした女の子には絶対に手を出すな。それに、プロダクション側とカネで間違ったことをするな」
番組が“家族的なイメージ”を保ってこられたのは、こうした指導によるところが大きい。池田が出身者を娘のように思っていたことは、夫婦の大ゲンカにも表れていた。
「百恵が引退した翌年、彼女のお母さんが亡くなられて。主人はひどい風邪をひいていたのに、それでも『すぐに行く』って聞かないの。そんな体でダメよって引き止めたけど、耳を貸す人じゃなかったわ」
その日から数えて1年前、池田は百恵に言葉を託している。